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アシュラフ・トゥーマーンバーイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アシュラフ・トゥーマーンバーイ
طومان باي
ブルジー・マムルーク朝第25代スルターン
アシュラフ・トゥーマーンバーイの肖像画
在位 1516年 - 1517年

死去 1517年4月15日
カイロ
王朝 ブルジー・マムルーク朝
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アシュラフ・トゥーマーンバーイ(? - 1517年4月15日)は、ブルジー・マムルーク朝の第25代、最後の君主(在位:1516年 - 1517年)。トゥマーン・ベイ2世ともいわれる。

生涯

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1516年に先代のアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーオスマン朝スルタンであるセリム1世シリア北部で戦い(マルジュ・ダービクの戦い)、敗北し不慮の死を遂げたため跡を継いだ[1]。しかしオスマン朝軍の進軍はとどまらず、アレッポダマスカスは抵抗無く平定された。

トゥーマーンバーイはカイロに兵力を集中させて抵抗の意を示すも、1516年末にカイロ近郊で行なわれたリダニヤの戦いで大敗。1517年1月にオスマン軍がカイロに入城するとトゥーマーンバーイは逃亡したが、捕らえられて処刑され、マムルーク朝は滅亡した[2]

脚注

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  1. ^ 大原、pp. 180 - 181
  2. ^ 大原、pp. 187 - 190

参考文献

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  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社.1976年10月)








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