ジャン2世 (ロレーヌ公)
ジャン2世 Jean II | |
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ロレーヌ公 | |
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在位 | 1453年 - 1470年 |
出生 |
1425年 ロレーヌ公国、ナンシー |
死去 |
1470年12月16日 カタルーニャ君主国、バルセロナ |
埋葬 | カタルーニャ君主国、バルセロナ、サンタ・エウラリア大聖堂 |
配偶者 | マリー・ド・ブルボン |
子女 | ニコラ1世 |
家名 | ヴァロワ=アンジュー家 |
父親 | ルネ・ダンジュー |
母親 | ロレーヌ女公イザベル |
ジャン2世・ダンジュー(Jean II d'Anjou, 1425年 - 1470年12月16日)は、ロレーヌ公(在位:1453年 - 1470年)。カラブリア公も称した(1435年 - 1470年)。ロレーヌ女公であった母イザベルから公位を継承した。父は母の共同統治者としてロレーヌ公でもあったナポリ王ルネ・ダンジュー。妹にヴォーデモン伯フェリー2世妃ヨランド、イングランド王ヘンリー6世妃マルグリットがいる。
生涯
[編集]1453年に母が亡くなり、父から公位を譲られた[1]。
父はナポリを巡りアラゴン王アルフォンソ5世と戦い、敗れてナポリを諦めた過去があった。ジャン2世も父と同じくナポリへの野望を抱き、ナポリ王でアルフォンソ5世の庶子フェルディナンド1世に戦いを仕掛け、1457年、1459年から1462年にかけてナポリへ遠征した。しかしミラノ公フランチェスコ・スフォルツァがフェルディナンド1世に味方し援軍を送ったため、ジャン2世は敗れてナポリ王位を断念した[2]。
1465年、フランス王ルイ11世とも対立しブルゴーニュ公シャルル、ブルターニュ公フランソワ2世、ブルボン公ジャン2世ら反国王派貴族が結成した公益同盟に加わったが、軍備に手間取っているうちにまとまりの弱い公益同盟が分裂、ルイ11世と交渉して同盟から離れた[3]。
翌1466年、息子のニコラとルイ11世の娘アンヌ・ド・ボージューが婚約、国王から10万リーブルの持参金を与えられた。これを機にアラゴン王フアン2世(アルフォンソ5世の弟)から王位を奪い取るため、カタルーニャの支援でイベリア半島へ向かった(父もフアン2世の対立王に推戴される)。アラゴンと戦っている最中に再び反ルイ11世派となりニコラとアンヌの婚約は破棄されたが、アラゴン王位を奪えないまま1470年、父に先立ちバルセロナで病死した[4]。
ブルボン公シャルル1世の娘マリー(1428年 - 1448年)と結婚し、4子をもうけたが、ニコラ1世以外の3人の娘は夭逝、ジャン2世の死後ニコラ1世が後を継いだが、1473年にニコラ1世も亡くなると甥ルネ2世(妹ヨランドの子)がロレーヌを相続した。
脚注
[編集]- ^ 三角、P167 - P168。
- ^ 三角、P159 - P160、グイチャルディーニ、P63、P75、P101。
- ^ ミシュレ、P87、P101 - P102、P109 - P110。
- ^ 三角、P160 - P161、P168、関、P245、ミシュレ、P172 - P173、P231、P285 - P286、P444 - P445。
参考文献
[編集]- 三角美次「アンジュー公ルネ善良王とプロヴァンス」(田辺保編『フランスわが愛 フランス学への一つの試み』青山社、2000年に掲載)
- フランチェスコ・グイチャルディーニ著、末吉孝州訳『イタリア史 I』太陽出版、2001年。
- 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
- ジュール・ミシュレ著、桐村泰次訳『フランス史[中世]VI』論創社、2017年。
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