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| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1889年]][[7月18日]]
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[赤坂区]]新坂町六二<br>
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1889|7|18|1977|4|6}}
| 死没地 = {{JPN}} 東京都[[千代田区]] [[宮内庁病院]]
| 出身校 = 京都帝国大学法科大学政治学科卒業<br>
| 前職 = 官僚
| 所属政党 = [[火曜会]]
| 称号・勲章 = [[瑞宝大綬章|勲一等瑞宝章]]<br>[[従二位]]<br>正三位勲二等<br>[[正三位]]<br>[[記念章#帝都復興記念章|帝都復興記念章]]<br>[[正五位]]
| 親族(政治家) = 大叔父
| 配偶者 = 木戸ツル
| 国旗4 = JPN
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| 国旗5 = 日本
}}
'''木戸 幸一'''(きど こういち、[[1889年]]
▲'''木戸 幸一'''(きど こういち、[[1889年]]([[明治]]22年)[[7月18日]] - [[1977年]]([[昭和]]52年)[[4月6日]])は、[[日本]]の[[官僚]]、[[政治家]]。[[侯爵]]。
[[昭和天皇]]の側近の一人として[[東條英機]]を[[内閣総理大臣]]に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]によって[[戦争犯罪]]容疑で逮捕され、[[極東国際軍事裁判]]において[[終身刑]]の[[A級戦犯]]となったが後に仮釈放された。
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[[1889年]]([[明治]]22年)7月18日に[[東京府]][[赤坂区]][[新坂町]]六二において[[侯爵]][[木戸孝正]]の長男として生まれた<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100305306|title=湯浅氏に授爵の御沙汰か|oldmeta=10106780}} 大阪朝日新聞 1940.6.2 神戸大学附属図書館 新聞記事文庫]</ref>。父の木戸孝正は、明治の元勲である[[木戸孝允]]の妹治子と[[長州藩]]士[[来原良蔵]]の長男である。
[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]では[[原田熊雄]]、[[織田信恒]]などと同級だった。[[近衛文麿]]は1学年下に当たる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は[[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都帝国大学法科大学]]政治学科に入学し、[[河上肇]]に私淑した。同校卒業後は[[農商務省 (日本)|農商務省]]へ入省した<ref name="ghq_reaume">{{Cite book|和書 |title=法廷証番号112: 木戸幸一履歴書(内閣官房人事課) |series=日本占領関係資料:連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 |format=35mmマイクロ資料 |pages=1-12 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273401 |accessdate=2018-08-10 |date=1946-06}} — 米国国立公文書館収蔵の原資料集 "GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section; Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47" (General Headquarters/Supreme Commander for Allied Powers) より "Pros. Doc. No. : 7516" のマイクロフィルム複写。</ref>。農商務省が
=== 公職入り ===
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1940年には近衛と[[有馬頼寧]]と共に「新党樹立に関する覚書」を作成し、[[新体制運動|近衛新体制]]づくりに関わった。
1940年6月1日に近衛、湯浅、米内、その他上層部一致の推挙で[[内大臣府|内大臣]]に就任した。この時50歳<ref>(角田竹男『北大法政ジャーナル』北海道大学大学院法学研究科 2016年12月12日 128頁)</ref>。内大臣としては異例の若さだったという<ref>(伊藤之雄『元老』中公新書 2016年6月25日 289頁)</ref>。
木戸の内大臣就任は特に陸軍、右翼から歓迎されたという<ref name="名前なし-20240629113750">(角田竹男『北大法政ジャーナル』北海道大学大学院法学研究科 2016年12月12日 129頁)</ref>。
内大臣になった木戸は天皇が[[日独伊三国同盟|三国同盟]]に反対し、かつ[[米内光政]]を深く信任していたことを知りながらも三国同盟に突き進む陸軍の推す[[近衛文麿]]を首相に奏薦した<ref name="名前なし-20240629113750"/>。この時、天皇は従来の手続きに準じて、元老[[西園寺公望]]の意見もあえて聞きたい意向を示したが木戸が西園寺の病気等を理由に斥けた<ref name="名前なし_2-20240629113750">(角田竹男『北大法政ジャーナル』北海道大学大学院法学研究科 2016年12月12日 130頁)</ref>。しかし、西園寺が奉答しなかったのは内大臣秘書官長が西園寺のもとを訪れて近衛の後継首相への同意を求められたので、同意しないという抵抗の意味で奉答しなかったようである。昭和天皇も木戸も近衛に陸軍を抑えることを期待していたようだが、西園寺の見立て通り近衛は陸軍に引っ張られて三国同盟を締結し日本は米英との戦争に大きな一歩を踏み出してしまった<ref>(伊藤之雄『元老』中公新書 2016年6月25日 293‐294頁)</ref>。
昭和15年(1940年)に締結された[[日独伊三国同盟]]は[[昭和天皇]]は反対であったにもかかわらず、天皇側近の[[内大臣府|内大臣]]として木戸は同盟を推進した。三国同盟締結後に木戸に会った元老[[西園寺公望]]公爵秘書[[原田熊雄]]は木戸に「これくらい重大な国家の運命にかかわる問題を、一言も[[元老]]に話さなかったのは甚だ遺憾に思う」と述べており、木戸幸一は天皇が三国同盟に反対しており、かつ元老の西園寺公望も三国同盟に反対していることを知りながらあえて西園寺に相談しないようにした{{Sfn|児島襄|1974|p=206-207}}。木戸は天皇や西園寺の意向をあえて無視して強い意向で三国同盟を進めたと考えらる<ref name="名前なし_2-20240629113750"/>。
このようなことは[[東京裁判]]の[[アーサー・S・コミンズ・カー|コミンズ・カー]]検事の最終諭告においても、天皇が三国同盟に反対していたにもかかわらず木戸の誘導により三国同盟が締結された可能性を指摘している{{Sfn|寺崎英成|1995|p=155}}。
1940年から[[1945年]](昭和20年)に[[内大臣府|内大臣]]を務め<ref name="ghq_reaume"/><ref name="naidaijin">{{Cite book|和書 |title=官報(物価号外) |number=4019号 |chapter=叙任及辞令 宮内省 |page=1 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960517 |accessdate=2018-08-10 |date=1940-06-01}}正3位勲二等侯爵 木戸幸一 - 任内大臣。</ref>、従来の元老[[西園寺公望]]や元・内大臣[[牧野伸顕]]に代わり[[昭和天皇]]の側近として宮中政治に関与し、[[宮中グループ]]として、学習院時代からの学友である近衛文麿や[[原田熊雄]]らと共に政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもなかったが、[[親独派]]として知られた。几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、木戸が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には木戸の意向・判断が重要となる。とりわけ1940年11月に西園寺が死去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。
=== 東條の首班指名 ===
1941年(昭和16年)9月6日の[[御前会議]]において日本は日米開戦の準備の方針を決定したのだが、天皇はこの重要な方針を決定する会議の席上で参加者に直接質問をしたいという意向を示したのだが、木戸によって阻止された。天皇は直接の質問を控えて[[明治天皇]]の[[御製]]を詠んで平和への意向を示すにとどまった<ref>(角田竹男『北大法政ジャーナル』北海道大学大学院法学研究科 2016年12月12日 131頁)</ref>。
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、[[日米交渉]]の行き詰まりによって[[第3次近衛内閣]]は[[1941年]](昭和16年)10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった[[東久邇宮稔彦王]]による[[皇族]]内閣が東條も含めた広い支持を集めており、近衛もこの案を昭和天皇に奏上した。ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、[[及川古志郎]]海相と[[東條英機]]陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。▼
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、[[日米交渉]]の行き詰まりによって[[第3次近衛内閣]]は[[1941年]](昭和16年)10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった[[東久邇宮稔彦王]]による[[皇族]]内閣が東條も含めた広い支持を集めていた。近衛も東久邇宮内閣案を昭和天皇に奏上し木戸にも話した(「東久邇宮日記」)<ref>(伊藤之雄「昭和天皇伝」文藝春秋 2011年7月15日 305頁)</ref>。
海軍も東久邇宮によって開戦回避のための組閣がなされるものと予測して準備していた{{Sfn|野村實|1988|p=64}}。
▲
同月17日に[[宮中]]で開かれた[[重臣会議]]において、[[林銑十郎]]から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると[[若槻禮次郎]]には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の[[岡田啓介]]と[[米内光政]]が述べると、代わりの[[宇垣一成]]であっても同様と[[阿部信行]]が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、[[広田弘毅]]、[[原嘉道]]からの賛同を得た木戸
東条組閣を聞いた海軍省軍務局長の[[岡敬純]]は大きな衝撃とともに「とんでもないこと」と発言し{{Sfn|野村實|1988|p=61}}、「これで戦争と直感した」と語っている{{Sfn|野村實|1988|p=68}}。
木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。
一方、木戸が東条を推薦した理由は「陸軍のじゃじゃ馬が言うことを聞かぬので、一度このへんで、東条あたりに国政をまかせてみよう。これで難しさを味わわせ、陸軍が失敗して懲りたななら、少しはおとなしくなるだろう」というような無責任とも言える理由があったとも言われている。実際に陸軍省にいた東条は宮内省から呼ばれた時に簡単な拝謁
木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の[[杉山元]]参謀総長や[[東條英機]]陸軍大臣とは連帯関係にあった。
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[[1955年]](昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、[[大磯]]に隠退する。後に[[青山 (東京都港区)|青山]]のマンションに転居する。[[1969年]](昭和44年)、[[傘寿]]の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。また『木戸日記』については[[1967年]](昭和42年)に大久保利謙早稲田大学講師を相手に政治談話として内大臣時代(1940年-1945年)の話を録音しており<ref>{{Cite journal|和書 |title=政治史料調査事務局沿革 |author=二宮三郎 |journal=参考書誌研究 |number=37 |publisher=国立国会図書館 |url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1283840/rnavi.ndl.go.jp/bibliography/tmp/37-03.pdf |date=1990-03-05}}</ref>、[[1974年]](昭和49年)製作の海外ドキュメンタリー『秘録 第二次世界大戦』でもインタビューに出演している。
[[1977年]](昭和52年)[[4月6日]]、[[宮内庁病院]]で胆汁性[[肝硬変]]のため87歳で没した。同月7日、天皇・皇后は田中侍従を使いとして供物料を供した<ref>両陛下が供物料 故木戸幸一氏に『朝日新聞』1977年4月8日朝刊、13版、23面</ref>。
遺骨は東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]多磨町の[[多磨霊園]]に埋葬された。
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* 1941年(昭和16年)[[8月15日|{{0}}8月15日]] - [[従二位]]<ref>{{Cite book|和書 |title=官報 |number=4418 |chapter=叙任及辞令 宮内省 |page=781 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2960916 |accessdate=2018-08-10 |date=1941-09-27}}</ref>
* 1942年(昭和17年)[[9月8日|{{0}}9月{{0}}8日]] - 勲一等[[瑞宝章]]<ref>{{Cite book|和書 |title=官報 |number=4418 |chapter=叙任及辞令 賞勲局 |page=275 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961207 |accessdate=2018-08-10 |date=1942-09-14}}</ref>
== 著書 ==▼
=== 農商務省・商工省時代 ===▼
*{{Cite book|和書 |title=支那ノ棉花ニ関スル調查. 其ノ3 |publisher=臨時産業調查局 |oclc=33786474 |year=1919}}▼
*{{Cite book|和書 |others=妻木忠太 [解説] |title=展觀目録 |publisher=[木戸幸一] | year=1926 |ncid=BA62260128}}▼
=== 極東国際軍事裁判 ===▼
*{{Cite book|和書 |title=木戸日記 : 木戸被告人宣誓供述書 全文 |others=極東国際軍事裁判研究会 [編集校訂] |series=極東国際軍事裁判研究 |publisher=平和書房,日本出版配給株式會社 [配給元] |oclc=26940318 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8795027 |access=limited |year=1947 |ref=harv}}<ref name="ndl_enkaku">国立国会図書館内公開(遠隔複写サービス)の対象。</ref>▼
*{{Cite book|和書 |title=東京裁判における木戸証言 : 軍政最後の権謀をあばく旋風時代の宮廷秘史 |publisher=キング出版社 |series=ニュース解説 |number=2 |oclc=673849467 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982778 |access=limited |year=1947}}<ref name="ndl_enkaku"/>▼
=== 日記、文書類、書翰 ===▼
*{{Cite book|和書 |title=木戸幸一関係文書 |others=木戸日記研究会 [校訂] |publisher=東京大学出版会 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982796 |access=limited |oclc=663513766 |year=1966 |ref=harv}} — 手記、文書類、書翰、筆者索引<ref name="ndl_enkaku"/><ref>1978年、1983年に改版。</ref>▼
*{{Cite book|和書 |others=木戸日記研究会 [校訂]; [[岡義武]] [解題] |title=木戸幸一日記 |publisher=東京大学出版会 |year=1966 |ncid=BN01329313 |ref=harv}}▼
**[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982795 上巻(1930–1937年)]<ref name="ndl_enkaku"/>▼
**[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3008690 下巻(1938–1945年、索引)]<ref name="ndl_enkaku"/>▼
**{{Cite book |title=The diary of Marquis Kido, 1931-45 : selected translations into English |language=en |publisher=University Publications of America |year=1984 |ncid=BA12116425}} — 抄訳▼
*{{Cite book|和書 |others=木戸日記研究会 [編集校訂] |title=木戸幸一日記 : 東京裁判期 |publisher=東京大学出版会 |year=1980 |ncid=BB02603358 |ref=harv}}<ref>{{Cite journal|和書 |title=続・東京裁判の記録・図書についてのおぼえがき — 付BC級戦争犯罪裁判資料 |author=住谷雄幸 |journal=参考書誌研究 |publisher=[[国立国会図書館]] |issn=0385-3306 |page= 33|number=25 |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051149_po_25-04.pdf?contentNo=1&alternativeNo= |date=1982-09-25}}</ref>▼
=== その他 ===▼
*{{Cite book|和書 |author=長與善郎|authorlink=長與善郎 |others=木戸幸一 [序] |title=少年滿洲讀本 |publisher=日本文化協會 |oclc=32597704 |year=1937 |ref=harv}}▼
== 発言 ==
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== 評価 ==
▲・[[平沼内閣]]の内務大臣として[[日独伊三国同盟|三国同盟]]反対派の弾圧を行い三国同盟を推進したと言われる{{Sfn|寺崎英成|1995|p=233}}。
▲・[[A級戦犯]]の中で仲間から一番嫌われていたのが木戸幸一と[[東郷茂徳|東郷重徳]]で、木戸は東条を首相に推薦したことを「功罪ともに、予が一身に引き受け、善処するの決意である」と木戸日記には記しているが、[[極東軍事裁判]]ではあいまいな発言を繰り返し専ら逃げの一手で責任回避に終始しており、護送バスの中では[[武藤章]]と[[佐藤賢了]]に「こんなウソつきな野郎はいない」と激怒され、側にいた[[橋本欣五郎]]も「本来なら、こんな奴は締め上げてやるんだが、今はそれもできんしね」と大声で言われたという{{Sfn|塩田道夫|1989|p=172‐174}}。
== 家族・親族 ==
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* 妻:ツル(陸軍大将[[児玉源太郎]]の娘)
* 長男:[[木戸孝澄]](日本勧業角丸証券株式会社(現[[みずほ証券]]常務)、妻・舒子は[[小松輝久]]長女)
* 二男:木戸孝彦 - 弁護士、妻は[[原嘉道]]の孫。娘婿に[[俵田明]]の孫・武。映画
* 長女:阿部由喜子([[阿部信行]]の長男・信男の妻)
* 三女:[[井上和子 (女官長)|井上和子]] (女官長、[[井上準之助]]の五男・五郎の妻)
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== 関連作品 ==
* ドキュメンタリードラマ『華族
▲== 著書 ==
▲=== 農商務省・商工省時代 ===
▲* {{Cite book|和書 |title=支那ノ棉花ニ関スル調查. 其ノ3 |publisher=臨時産業調查局 |oclc=33786474 |year=1919}}
▲* {{Cite book|和書 |others=妻木忠太 [解説] |title=展觀目録 |publisher=[木戸幸一] | year=1926 |ncid=BA62260128}}
▲=== 極東国際軍事裁判 ===
▲* {{Cite book|和書 |title=木戸日記 : 木戸被告人宣誓供述書 全文 |others=極東国際軍事裁判研究会 [編集校訂] |series=極東国際軍事裁判研究 |publisher=平和書房,日本出版配給株式會社 [配給元] |oclc=26940318 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8795027 |access=limited |year=1947 |ref=harv}}<ref name="ndl_enkaku">国立国会図書館内公開(遠隔複写サービス)の対象。</ref>
▲* {{Cite book|和書 |title=東京裁判における木戸証言 : 軍政最後の権謀をあばく旋風時代の宮廷秘史 |publisher=キング出版社 |series=ニュース解説 |number=2 |oclc=673849467 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982778 |access=limited |year=1947}}<ref name="ndl_enkaku"/>
▲=== 日記、文書類、書翰 ===
▲* {{Cite book|和書 |title=木戸幸一関係文書 |others=木戸日記研究会 [校訂] |publisher=東京大学出版会 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982796 |access=limited |oclc=663513766 |year=1966 |ref=harv}} — 手記、文書類、書翰、筆者索引<ref name="ndl_enkaku"/><ref>1978年、1983年に改版。</ref>
▲* {{Cite book|和書 |others=木戸日記研究会 [校訂]; [[岡義武]] [解題] |title=木戸幸一日記 |publisher=東京大学出版会 |year=1966 |ncid=BN01329313 |ref=harv}}
▲** [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2982795 上巻(1930–1937年)]<ref name="ndl_enkaku"/>
▲** [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3008690 下巻(1938–1945年、索引)]<ref name="ndl_enkaku"/>
▲** {{Cite book |title=The diary of Marquis Kido, 1931-45 : selected translations into English |language=en |publisher=University Publications of America |year=1984 |ncid=BA12116425}} — 抄訳
▲* {{Cite book|和書 |others=木戸日記研究会 [編集校訂] |title=木戸幸一日記 : 東京裁判期 |publisher=東京大学出版会 |year=1980 |ncid=BB02603358 |ref=harv}}<ref>{{Cite journal|和書 |title=続・東京裁判の記録・図書についてのおぼえがき — 付BC級戦争犯罪裁判資料 |author=住谷雄幸 |journal=参考書誌研究 |publisher=[[国立国会図書館]] |issn=0385-3306 |page= 33|number=25 |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051149_po_25-04.pdf?contentNo=1&alternativeNo= |date=1982-09-25}}</ref>
▲=== その他 ===
▲* {{Cite book|和書 |author=長與善郎|authorlink=長與善郎 |others=木戸幸一 [序] |title=少年滿洲讀本 |publisher=日本文化協會 |oclc=32597704 |year=1937 |ref=harv}}
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2024年8月|section=1}}
*{{Cite book|和書 |author=早川隆 |title=日本の上流社会と閨閥 |publisher=[[角川書店]] |year=1983 |pages=175-179| ncid=BN12126486}}▼
*<!--コジマ-->{{Cite book |和書
*
*<!--シロヤマ-->{{Cite book|和書 |author=
** {{Cite book|和書 |author=
*<!--テラサキ-->{{Cite book|和書
*<!--トリイ-->{{Cite book|和書 |author=鳥居民|authorlink=鳥居民 |title=山本五十六の乾坤一擲(けんこんいってき) |publisher=[[文藝春秋]] |year=2010 |ncid=BB02943185 |isbn=978-4-16-372860-5}}
** 新版『山本五十六の乾坤一擲』草思社文庫、2019年。ISBN 4794224265
*{{Cite journal|和書 |author=[[松浦正孝]] |title=宗像久敬ともう一つの終戦工作(上) |journal=UP |issn=0913-3291 |publisher=東京大学出版会 |date=1997-01 |volume= 26 |number=1 |pages=16-20 |naid=40000044898}}▼
*<!--ノムラ-->{{Cite book |和書|author=野村實|authorlink=野村実|date=1988-2-10|title=天皇・伏見宮と日本海軍|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-342120-3|ref={{SfnRef|野村實|1988}} }}
*{{Cite journal|和書 |author=松浦正孝 |title=宗像久敬ともう一つの終戦工作(下) |journal=UP |issn= 0913-3291 |publisher=東京大学出版会 |date=1997-02 |volume=26 |number=2 |pages=25-29 |naid=40000044903}}▼
*<!--ヒラツカ-->{{Cite book|和書 |author=平塚柾緒|authorlink=平塚柾緒 |editor=太平洋戦争研究会|title=図説 東京裁判 |publisher=[[河出書房新社]] |year=2002 |series=ふくろうの本 |ncid=BA58073422 |isbn=4-309-76020-1}}
▲*<!--ハヤカワ-->{{Cite book|和書 |author=早川隆 |title=日本の上流社会と閨閥 |publisher=[[角川書店]] |year=1983 |pages=175-179| ncid=BN12126486 |doi=10.11501/12127812}}
*
▲*<!--マツウラ-->{{Cite journal|和書 |author=松浦正孝 |authorlink=松浦正孝|title=宗像久敬ともう一つの終戦工作(
▲* {{Cite journal|和書 |author=
*<!--ヨシダ-->{{Cite book|和書 |author=吉田裕|authorlink=吉田裕 (歴史学者) |title=昭和天皇の終戦史 |publisher=[[岩波書店]] |year=1992 |series=[[岩波新書]] 新赤版 257 |ncid=BN08459521 |isbn=4-00-430257-9}}
== 評伝 ==
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[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:木戸家|こういち]]
[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]▼
[[Category:児玉伯爵家]]
[[Category:学習院中・高等科出身の人物]]
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[[Category:1889年生]]
[[Category:1977年没]]
▲[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
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