「ルミネエスト新宿」の版間の差分
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新宿駅東口において[[民衆駅]]を開発、運営することを目的に[[1959年]]に株式会社新宿ステーションビルディングが設立され<ref name=jr434>『東日本旅客鉄道株式会社二十年史 1987.4-2007.3』p.434</ref>、「[[1964年]][[5月20日]]午前9時30分にオープン。PHP研究所編・刊「西武鉄道のひみつ」175Pでは、「オープン当初は「'''新宿民衆駅ビル'''」を名乗り、すぐに「'''新宿ステーションビル'''」に改称されました。」と書かれているが、実際には、オープン前日の新聞広告には「'''新宿ステーションビル'''」と記載されている。また[[1978年]]の全館改装時に一般公募された'''マイシティ'''に呼称を変更している。開業時のキャッチコピーは、「'''250の粒よりの名店=虹のターミナル'''」。オープン前日の新聞広告では「山手線、中央線、総武線、西武線、地下鉄、小田急、京王線・・・新宿ステーションビルは七つの線が集まる「虹のターミナル」です。」とあり、西武鉄道の乗り入れを前提としたキャッチコピーであることがわかる。
新宿ステーションビルディングは[[伊勢丹]]、[[高島屋|髙島屋]]、[[西武グループ]]、[[丸正]]、[[鉄道弘済会]]、[[井野硯哉]](参議院議員・新宿ステーションビル初代社長・新宿ベルク井野朋也店長の祖父)などが株主として名を連ねた。当初は髙島屋が新宿店開設を狙ったが、地元の伊勢丹や[[西武新宿線]]と[[西武新宿駅]]を持つ西武グループが猛反発して巻き返したため、結果的に共同運営の専門店ビルとなった。
オープン当時には西武新宿駅を接続させる計画があったため、[[スタジオアルタ]]側の2階部分は駅舎・ホーム建設用に強固な構造になっている。しかし、6両編成までしか有効長がとれなかったために乗り入れは断念された。中村健治著「東京 消えた! 鉄道計画」イカロス出版刊46Pには「確保した狭い駅ビル内ではホームの長さが足りないことが判明した」と、ビル内にホームを建設を予定し、2階吹き抜け部分がホーム跡地であるかのような記述があるがこれは誤りである。
設立時において新宿ステーションビルディングは[[国鉄]]の非出資会社であった(
[[2006年]][[4月1日]]、同じ[[JR東日本グループ]]であるルミネに[[吸収合併]]され<ref>『東日本旅客鉄道株式会社二十年史 1987.4-2007.3』p.437</ref>、駅ビル名をマイシティから'''ルミネエスト'''に変更した。
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== 参考文献 ==
* 東日本旅客鉄道株式会社編『東日本旅客鉄道株式会社二十年史 1987.4-2007.3』 東日本旅客鉄道、2007年。
* 「月刊経営塾」1991年6月号「完全に城を明け渡した新宿ステーションビル・・・・・・敗戦処理に入った堤・セゾン」
* 「月刊宝石」1991年9月号「仮面の経営者・堤清二<第7弾!>新宿ステーションビルから追放された日」林一仁・著
== 関連項目 ==
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