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|説明 =
|王朝 =清
|在位期間 =[[光緒]]元年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]] - 光緒34年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]<br/>([[1875年]][[2月25日]] - [[1908年]][[11月14日]])
|都城 =
|諱 =愛新覚羅載{{lang|zh|湉}}(アイシンギョロ・ヅァイティヤン)
|満文 =
|字 =
|小字 =
|諡号 =景皇帝(ambalinggū hūwangdi)<br/>同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹
|廟号 =徳宗
|生年 =[[同治]]10年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]<br/>([[1871年]][[8月14日]])
|没年 =[[光緒]]34年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]<br/>([[1908年]][[11月14日]])
|父 =[[愛新覚羅奕
|母 =[[
|皇后 =[[孝定景皇后]](隆裕皇太后、葉赫那拉氏、西太后姪)
|陵墓 =崇陵(wesihun munggan)
|年号 =[[光緒]]
|注釈 =
|子=なし
養子→[[宣統帝]]}}
'''光緒帝'''(こうしょてい、こうちょてい)は、[[清]]の第11代[[皇帝]]
== 生涯 ==
[[ファイル:《载湉读书像》.jpg|left|thumb
[[道光帝]]の第7子[[醇親王]][[愛新覚羅奕
同治帝の頃からあった清の衰退は光緒帝の治世でも続き、同治10年([[1871年]])の[[新疆ウイグル自治区|新疆]]で勃発した[[ヤクブ・ベクの乱]]の最中に起こった[[ロシア帝国|ロシア]]の[[イリ地方|イリ]]占拠、光緒元年([[1875年]])の[[大日本帝国|日本]]による[[李氏朝鮮|朝鮮]]の干渉([[江華島事件]])、光緒5年([[1879年]])の日本の[[琉球王国|琉球]]併合([[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]])、光緒11年([[1885年]])の[[清仏戦争]]による[[ベトナム]]への影響力喪失などが挙げられる。それでも恭親王と親密な[[李鴻章]]・[[左宗棠]]らによる[[洋務運動]]で清の技術発展が進められ、新疆は光緒3年([[1877年]])までに左宗棠に平定され、光緒7年([[1881年]])の[[イリ条約]]でイリがロシアから返還された。朝鮮を巡る日本との外交も李鴻章が光緒8年([[1882年]])の[[壬午事変]]、光緒10年([[1884年]])の[[甲申政変]]を経て光緒11年の[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]で朝鮮に足場を築き、ある程度は軍事力を持ち直した。
同治10年(1871年)の[[イリ問題]]、光緒2年([[1876年]])の[[琉球]]失陥、光緒11年([[1885年]])の[[清仏戦争]]による[[ベトナム]]への影響力喪失、光緒20年([[1894年]])の[[日清戦争]]による[[李氏朝鮮|朝鮮]]への影響力喪失など、相次ぐ自国の不甲斐なさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。それゆえ[[康有為]]、[[梁啓超]]らによる[[戊戌の変法|変法運動]]への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの[[親政]]により清の中興を成し遂げようとした。光緒24年([[1898年]])に光緒帝は体制の抜本的な改革を宣言([[戊戌の変法]])。しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。▼
光緒帝は16歳になった光緒13年([[1887年]])に朝政を開始したが、西太后の監督下で政治を行う訓政という形で西太后の専権は継続、光緒15年([[1889年]])の結婚に伴い形式的には正式な[[親政]]を開始した<ref>並木、P232 - P235、加藤、P176 - P178、P182 - P199、岡本、P118 - P156。</ref>。
▲
しかし西太后と旧来の大官は西太后政治の継続を図り、西太后は当初未だ先の事としてクーデターを準備していたが、変法派の一部もクーデターに対する先手を企図して西太后の幽閉を計画。変法派に同調していた[[袁世凱]]も西太后の寵臣栄禄の突然の訪問を受けて大勢を覚り、計画を[[栄禄]]に自白した。西太后はクーデターを起こして光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した([[戊戌の政変]])。西太后は光緒帝の廃位を考え、光緒帝の[[いとこ|従甥]]で自らの大甥でもある端郡王[[愛新覚羅載漪|載漪]]の子の[[保慶帝|溥儁]]を大阿哥(皇太子)に立てたが、列強の反対にあい光緒帝の廃位は断念した({{仮リンク|己亥建儲|zh|己亥建储}})<ref>並木、P235 - P242、P253 - P258、加藤、P204 - P232、岡本、P171 - P193。</ref>。
[[義和団の乱]]が発生すると、最終的に西太后が列強国との開戦を決定したが、光緒帝は八カ国連合軍の侵攻を前にアメリカ大統領に国書を送って平和工作の斡旋を頼み、また各国公使を歴任し当時は京師大学堂管学(北京大学校長)の[[許景澄]]に大使館区の保護を列強国へ伝えるよう命じたが、西太后に阻止された。西太后に因る八カ国への宣戦布告後、許景澄は大使館攻撃等の国際法違反行為や勝ち目の無い無謀な戦争である事を諌める奏上を行い、西太后に因って処刑された。
光緒26年([[1900年]])、[[八カ国連合軍]]が北京に迫ると、西太后に連行され[[西安市|西安]]まで落ち延びた。フランス軍,ドイツ軍は各地で略奪や暴虐を繰返し横暴を極めたが、北京が陥落した際に軍紀が良かったのはアメリカ軍と故宮を守った日本軍であった。
[[レジナルド・ジョンストン]]は宦官から聞いた話によると、当時皇帝は、紫禁城を脱出しようと目論んだけれども、宮中の宦官に止められたという<ref>{{Cite book|和書|others=中山理訳、渡部昇一監修|year=2008|month=10|title=完訳 紫禁城の黄昏 上|series=祥伝社黄金文庫|publisher=祥伝社|isbn=978-4-396-31468-2|url=https://www.sun.s-book.net/slib/slib_detail?isbn=9784396314682}},p.83。</ref>。その際に光緒帝の寵妃[[珍妃]]が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。西太后の復帰させた李鴻章と列強の交渉で翌27年([[1901年]])に[[北京議定書|辛丑和約]]を締結、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法の中から議院内閣制や立憲君主制を排除した、部分的な人事制度の変更に留まった[[光緒新政]]が展開されるが、光緒帝は西太后が死亡するまで終生に渡り幽閉されたまま殺害された。
光緒34年(1908年)10月21日に崩御。宝算37。翌日の22日に西太后も崩御。[[清西陵]]に陵墓がある。西太后の遺命で甥の[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が宣統帝として即位、実父で光緒帝の弟である醇親王[[愛新覚羅載灃|載灃]]が摂政に就いたが、長年の西太后専権により清は3年後の宣統3年から4年([[1911年]] - [[1912年]])にかけて起こった[[辛亥革命]]で滅亡した<ref>並木、P298 - P302、P314 - P317、加藤、P232 - P267、岡本、P193 - P201。</ref>。
== 死にまつわる謎 ==
[[ファイル:Emperor Guangxu in Ordinary Clothes.jpg|260px|サムネイル|光緒帝の半身像の素描]]
死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から[[砒素]]で毒殺されたという噂があった。
[[1980年]]の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関する[[カルテ]](急性ヒ素中毒の症状が全く見られないばかりかヒ素中毒と矛盾する症状が書かれてる為、予め命令を受けてた御医が捏造したかあるいは後に改竄された物)及び薬品の処方といった史料が現在も[[故宮]]に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた<ref>加藤、P264 - P265。</ref>。
しかしながら[[2003年]]より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、[[2007年]]に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され<ref>{{cite news |title=最新科学で100年の謎を解明!清朝11代皇帝光緒帝の死因はヒ素による毒殺か?―香港誌 |newspaper=レコードチャイナ |date=2007-12-05 |url=
その後も調査を進め光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の[[三酸化二ヒ素|三酸化二砒素]]が検出された。
西太后が宦官、侍衛によって厳重に監視、軟禁していた光緒帝を、閉鎖空間であり厳重に警備された紫禁城内で毒殺した犯人については以下の説があり、真相は明らかになっていない。
; 西太后犯人説
: 『慈禧大伝』及び『崇陵伝信録』
; 袁世凱犯人説
:
; 李蓮英犯人説
:
; その他毒殺説
: 『逸経』等にある、侍医が毒殺したという説など。
== 后妃 ==
皇后が1人、側室が2人いたが、寵愛され懐妊した珍妃は妊娠3ヶ月の時に西太后から拷問を受け流産してしまったため、いずれの女性の間にも子供は生まれなかった。
*[[隆裕皇太后|孝定景皇后]](同治7年([[1868年]]) - [[中華民国暦|民国]]2年([[1913年]]))。西太后の弟桂祥の娘で、西太后の姪にあたる。選秀女に参加して入選し、1889年に光緒帝の皇后に立てられる。西太后と光緒帝が対立したため、光緒帝に疎まれ夫婦仲はよくなかったという。溥儀が宣統帝として即位すると嫡母となり、隆裕皇太后と徽号される。辛亥革命では清朝内部で主戦派と和平派の論争が起きるが、最終的には隆裕皇太后が和平派に傾き、皇帝退位の決断をした。そのため民国時代には、古代に禅譲した帝王にたとえられ、「女の中の尭舜」と呼ばれた。1913年2月に死去した際には民国政府から国葬級の待遇を受け、大規模な国民哀悼会が開催された。また、棺を西陵に埋葬する際には、多くの民国政府の官僚が西陵まで参列した。諡号は孝定景皇后。西陵の崇陵に光緒帝とともに葬られている。隆裕の本名については[[西太后#西太后の本名について]]を参照▼
*[[瑾妃|端康皇貴妃]](同治13年([[1874年]]) - 民国13年([[1924年]])):タタラ(他他拉)氏の長敘の娘。妹とともに選秀女に参加して入選。瑾嬪となり後に瑾妃に進む。妹珍妃が西太后の怒りにふれたため、一時期貴人に落とされるが、後に瑾妃に復帰。溥儀が即位すると皇考瑾貴妃と尊称された。民国年間には端康皇貴妃の徽号が送られた。いわゆる[[四太妃]]の1人。隆裕皇太后の死後は、実家が袁世凱に賄賂を贈ったために四太妃のなかで主導的地位につき、紫禁城の奥向きを取り仕切った。溥儀の『わが半生』によると、少年時代の溥儀の生活に干渉したため煙たい存在だったようだ。1924年死去。諡は温靖皇貴妃。▼
▲* [[隆裕皇太后|孝定景皇后]](hiyoošungga toktonggo ambalinggū hūwangheo)(同治7年([[1868年]]) - [[
*[[珍妃|恪順皇貴妃]](光緒2年([[1876年]]) - 26年([[1900年]])):タタラ(他他拉)氏の長敘の娘で瑾妃の妹。姉とともに選秀女に参加して入選。珍嬪となり後に珍妃に進む。光緒帝に最も寵愛された妃という。一時期、西太后の怒りにふれ、政治に口出しをし賄賂を受け取って官職を売ったとして貴人に落とされるが、後に珍妃に復帰。戊戌政変では再び西太后の怒りにふれ、紫禁城内の一室に幽閉される。義和団の乱で8ヶ国連合軍が[[北京市|北京]]を占領した際、西太后らとともに西へ逃げることを拒否したため西太后の怒りにふれ、宦官に井戸に突き落とされて殺害された。翌年西太后らが北京に戻るとようやく井戸から引き上げられて葬儀が行われ、恪順皇貴妃の諡号が送られた。清朝の公式発表では、8ヶ国連合軍が迫り節を守るために自殺したとされている。瑾妃、珍妃姉妹の墓は西陵の崇陵の妃園寝にある。▼
▲* [[
▲* [[珍妃|恪順皇貴妃]](光緒2年([[1876年]]) - 26年([[1900年]])):タタラ
== 脚注 ==
{{
==
* [[並木頼寿]]・[[井上裕正]]『世界の歴史19 中華帝国の危機』[[中央公論新社|中央公論社]]、1997年。のち[[中公文庫]]
* [[加藤徹]]『西太后 <small>大清帝国最後の光芒</small>』[[中公新書]]、2005年。
*[[東太后]]▼
* [[岡本隆司]]『李鴻章 <small>東アジアの近代</small>』[[岩波新書]]、2011年。
== 登場作品 ==
; 映画
*[[中南海]](瀛台)▼
* 『[[真説 西太后]]』(中国、1987年)演:[[李棟]]
*[[北京の55日]]▼
* 『[[李蓮英 清朝最後の宦官]]』(中国・香港、1990年)演:[[田少軍]]
テレビドラマ
* 『[[西太后の紫禁城]]』(中国、1998年)演:[[邱心志]](チウ・シンジー)
* 『[[蒼穹の昴]]』(日本・中国、2010年)演:[[張博]]
* 『[[月に咲く花の如く]]』(中国、2017年)演:[[周瑞]]
== 関連項目 ==
▲* [[中南海]](瀛台)
▲* [[北京の55日]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|光緒帝(こうしょてい)}}
{{清の皇帝|1875年 - 1908年||第11代}}
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{{DEFAULTSORT:こうしよてい}}
[[Category:19世紀中国の君主]]
[[Category:20世紀中国の君主]]
[[Category:清の皇帝]]
[[Category:中国の幼君]]
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[[Category:1908年没]]
▲[[zh:光绪帝]]
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