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'''孝和睿皇后'''(こうわえいこうごう、[[満州語]]:{{mongol|ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ<br /> ᡥᡡᠸᠠᠯᡳᠶᠠᠰᡠᠨ<br /> ᠰᡠᠩᡤᡳᠶᡝᠨ<br /> ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ}} 転写:hiyoošungga hūwaliyasun sunggiyen hūwangheo)は、[[清]]の[[嘉慶帝]]の2番目の[[皇后]]。[[満洲民族|満洲]][[八旗|鑲黄旗]]の出身。姓は[[鈕祜禄氏|鈕祜禄氏(ニオフル氏)]]。[[工部 (六部)|工部尚書]]の恭阿拉(グンガラ)の娘。幼いころは乾隆帝の末娘[[固倫和孝公主]]の侍読として学友をつとめた。
 
== 生涯 ==
亡くなった[[恕妃|側福晋]][[完顔氏]]の代わりに[[乾隆帝]]の第15皇子永琰に側福晋(側室)として嫁ぎ、乾隆帝の譲位を受けて永琰が嘉慶帝として即位すると、貴妃となり、承乾宮に居住するようになる。[[孝淑睿皇后|皇后喜塔臘氏]]が亡くなると、乾隆上皇の意向により皇貴妃となって後宮事務を引き継ぎ、嘉慶6年([[1801年]])に、儲秀宮に移り住み、正式に立后される。
 
嘉慶帝が亡くなり、孝淑睿皇后の遺児で、孝和睿皇后が実子と同じように育ててきた第2皇子綿寧が[[道光帝]]として即位すると、皇太后となった。熱河に巡幸していた嘉慶帝の遺詔が見つからず、次に擁立すべき皇帝の人選に大臣が混乱した際に、断固道光帝を支持し、自身の腹を痛めた二人の皇子を差し置いた。このように道光帝との関係は最後まで良好で、皇太后は威厳をもって後宮に君臨した。
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