「文宗 (唐)」の版間の差分
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|王朝 =唐
|在位期間 =[[宝暦 (唐)|宝暦]]2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]] - [[開成 (唐)|開成]]5年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]<br />([[827年]][[1月13日]] - [[840年]][[2月10日]])
|都城 =[[長安]]
|諱 =李涵→李昂
|字 =
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親政を計画し、[[大和 (唐)|大和]]5年([[831年]])に宰相の[[宋申錫]]と共に宦官の討滅を謀ったが失敗する。そして大和9年([[835年]])に再び[[李訓]]らと共に宦官討滅を謀った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害され、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった([[甘露の変]])。
文宗は既に実子の荘恪太子[[李永]]と蒋王[[李宗倹]]を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王[[李成美]]を[[皇太子]]としていた。しかし甘露の変が発生すると、宦官の[[仇士良]]らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である潁王[[武宗 (唐)|李瀍]]が立太子された。[[開成 (唐)|開成]]5年([[840年]])、幽閉されていた文宗は32歳で[[崩御]]した。
=== 晩年 開成4年(839年)、文宗は風痺(中風)が重症化し謁見を切り上げ思政殿へ退いた。ふと、学士を召し出して下問する。「予はいにしえの天子のだれに近いと思われるか」 直学士・周徳升がこたえる。「[[堯]][[舜]]の君にございます。」文宗は続ける。「周赧・漢献についてどう思われるか」 [[周]]の[[赧王]]・[[後漢]]の[[献帝]]、ともに政治的には無力のまま座して亡国をみた君主として連想される。周学士は驚き、陛下と比すべき対象ではありませぬと応じる。文宗は涙を流しながらこうしめくくる。「周赧・漢献は諸侯に外から制せられ、予は家奴(宦官)に内から制せらる。予は彼らにおよばない」 周学士は地に伏して泣き文宗に同情した。(『[[新唐書]]』巻207 列伝132 宦者 仇士良、巻182 列伝107 周徳升)
== 日本との関係 ==
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== 宗室 ==
*側室:王徳妃
**長男:魯王 [[李永]](荘恪太子)▼
*
*生母不詳の子女
**蒋王 [[李宗倹]]▼
▲*魯王[[李永]](荘恪太子)
▲*蒋王[[李宗倹]]
== 登場作品 ==
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