「景帝 (漢)」の版間の差分
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|代数 = 第6代
|呼称 = 皇帝
|画像 = [[File:
|説明 = 聖君賢臣全身像冊([[国立故宮博物院]]蔵)より
|王朝 = 前漢
|在位期間 = [[文帝 (漢)|文帝]]後7年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]] - 景帝後3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]<br/>([[紀元前157年|前157年]][[7月14日]] - [[紀元前141年|前141年]][[3月9日]])
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|注釈 =
}}
'''景帝'''(けいてい)は、[[前漢]]の第6代[[皇帝]]。中国皇帝の中で名君とされる一人である。
父の[[文帝 (漢)|文帝]]と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「[[文景の治]]」と賞賛された。また、[[後漢]]の創始者である[[光武帝]]劉秀と[[蜀漢]]の創始者である昭烈帝[[劉備]]は景帝の末裔と称した。
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呉楚七国の乱の鎮圧以降、諸侯王の封土は官僚である相([[諸侯相]])を派遣して統治させ、諸侯王は徴税される税を受け取るのみとし、当初計画していた諸侯王の権力削減は成功した。
また、呉楚七国の乱鎮圧の功労者である周亜夫を、皇太子冊立をめぐる対立により丞相から解任した。それからしばらくして、前漢では初めて自身の側近を丞相に任じた。このことは従来、皇帝の政策にも制約を加えるだけの権力を与えられていた元勲たちとその一族からのみ任命されることが不文律化していた丞相の権力が、景帝の時代に大きく低下し、逆に皇帝権力が飛躍的に強化されたことを示している。
== 宗室 ==
{{漢王朝系図}}
*正室:[[薄皇后 (漢景帝)|薄皇后]](廃) - 祖母[[薄姫|薄氏]]の同族
*
** 夫人王児{{lang|zh|姁}} - 王皇后の妹▼
** 賈夫人▼
**十一男:武帝 [[武帝 (漢)|劉徹]] - はじめ膠東王、第7代皇帝
** {{仮リンク|栗姫|zh|栗姬}}▼
** 程姫▼
** 唐姫▼
**十二男:膠東康王 [[劉寄]]
*#河間献王 [[劉徳]] (母:栗姫)▼
*
*#魯恭王<ref>『[[漢書]]』王子侯表、『[[後漢書]]』劉表伝より。『[[史記]]』五宗世家では共王。</ref> [[劉余]] (母:程姫。はじめ[[淮陽県|淮陽]]王、[[劉焉]]<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書「劉焉伝」</ref>と[[劉表]]<ref>『後漢書』劉表伝</ref>と[[劉洪]]の祖)▼
**長男:臨江閔王 [[劉栄]]
*#長沙定王 [[劉発]] (母:唐姫。[[光武帝]]劉秀の祖。昭烈帝[[劉備]]の祖<ref>『三国志』蜀書「先主伝」が引く『[[魏略|典略]]』</ref>)▼
**三男:臨江哀王 [[劉閼于]]
▲*#中山靖王 [[劉勝]] (母:賈夫人。前述の昭烈帝の祖<ref>『三国志』蜀書「先主伝」</ref>)
▲*
▲*#広川恵王 [[劉越]] (母:王夫人)
*
*
▲*#清河哀王 [[劉乗]] (母:王夫人)
▲*#常山憲王 [[劉舜 (常山王)|劉舜]] (母:王夫人。真定王[[劉楊]]の祖)
▲** {{仮リンク|平陽公主 (漢景帝の娘)|label=平陽公主|zh|平陽公主 (漢景帝之女)}} (母:王皇后。平陽侯曹寿・汝陰侯夏侯頗・[[衛青]]にとついだ)
▲** 南宮公主 (母:王皇后。南宮侯張生・張侯耏申にとついだ)
▲** 隆慮公主 (母:王皇后。隆慮侯陳蟜([[陳皇后 (漢武帝)|陳皇后]]の兄弟)にとついだ)
== 登場作品 ==
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[[Category:紀元前141年没]]
[[Category:前漢景帝期の人物|*]]
[[Category:紀元前2世紀中国の君主]]
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