「渥美郡」の版間の差分
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三河国奥郡=渥美郡。奥三河とは違う。 |
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中世には[[一色氏]]が支配したが、[[応仁の乱]]後は[[田原城 (三河国)|田原城]]や[[二連木城]]を築いて渥美郡の支配力を強める[[戸田氏]]に対し、[[16世紀]]の初頭からは隣郡の[[宝飯郡]]から[[三河牧野氏|牧野氏]]が[[吉田城 (三河国)|今橋城]]を築いて戸田氏と争った。度重なる今橋城(吉田城)の争奪戦に[[西三河]]の[[松平氏]]まで絡んでくるが、東から[[駿河国]]・[[遠江国]]を治める[[今川氏]]が松平氏・戸田氏・牧野氏をまるごと従えるようになったため、今川氏による支配で落ち着いた時期もある。
室町戦国時代には、奥郡という呼び方もある。文明6年11月1日の如光弟子帳で,「奥郡野田」と見える(上宮寺文書/岡崎市史6)。その他,戦国期から江戸初期の史料では,大津(老津)・神戸・伊良湖・堀切・弥熊などが奥郡の地名として見え,渥美半島一帯が奥郡と称されていたものと推定される。天文20年5月7日の今川義元判物によると「参河国奥郡神戸郷南方名職之事,右如前前公事年貢等令取沙汰,百姓職永可勤之并船二艘事」が本多正忠に宛行われている(摩訶耶寺文書/静岡県史料5)。
江戸期には[[三河吉田藩|吉田藩]]や[[田原藩]]や[[畑村藩]]などの変遷を経て廃藩置県を迎えた。
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