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{{日本の氏族
|家名 = 神保氏
|家紋 = MaruniTateFutatsuHikiryou.png
|家紋名称 = {{ruby|[[引両紋|堅二引両]]|たてふたつひきりょう}}{{Sfn|太田|1934|p=2906}}
|本姓 = [[惟宗氏|惟宗]][[朝臣]]{{Sfn|太田|1934|p=2905}}<br/>'''称'''・[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]{{Sfn|太田|1934|pp=2905-2906}}<br/>'''称'''・[[橘氏]]{{Sfn|太田|1934|pp=2905, 2907}}
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|出身地 = [[上野国]][[多胡郡]][[辛科郷]][[神保邑]]{{Efn|[[神保村 (群馬県)|神保村]]、[[多野郡]][[多胡村]]神保、[[高崎市]][[吉井町 (群馬県)|吉井町]][[吉井町神保|神保]]}}
|根拠地 = [[越中国]][[富山城]]{{Sfn|太田|1934|p=2905}}<br/>[[紀伊国]]
|人物 = [[神保長誠]]<br/>[[神保長職]]<br/>[[神保相茂]]<br/>[[神保長住]]<br/>[[神保長城]]
|支流 =
}}
'''神保氏'''(じんぼうし・じんぼし)は、[[本姓]]は[[惟宗氏|惟宗]][[朝臣]]で、[[上野国]][[多胡郡]][[辛科郷]][[神保邑]]が名字発祥の地という。家紋は「[[
== 概要 ==
神保氏は[[室町幕府]][[管領]][[畠山氏]]の鎌倉以来の[[譜代]]家臣で、畠山氏の領国である[[越中国
越中国においては、はじめ[[放生津城]]を主城とし、その外に[[守山城 (越中国)|守山城]]、滝山城、[[増山城]]、[[日宮城]]の諸城を有した{{Sfn|高岡市史編纂委員会|1959|p=527}}。勢力が盛んなときは[[富山城]]に拠った{{Sfn|高岡市史編纂委員会|1959|p=528}}。
しかし[[天文 (元号)|天文]]期になり、慶宗の遺児とみられる[[神保長職|長職]]が[[新川郡]]に[[富山城]]を築いて神保氏を再興し、新川郡守護代の[[椎名氏]]との抗争を経て越中一国を席巻する勢いとなったが、椎名氏の援軍要請を受けた[[上杉謙信]](長尾為景の実子)に敗北し、[[上杉氏]]に従属する。しかしやがて[[武田氏|武田]]・[[一向宗]]派と上杉派に家中が分裂し、内紛状態となって衰退し、家中の実権は親上杉派の家老[[小島職鎮]]に握られた。長職の嫡子[[神保長住|長住]]は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り[[織田信長]]に仕え、越中帰還の機会を待った。▼
[[応仁の乱]]では東軍[[畠山政長]]の腹心として[[神保長誠]]が活躍、[[明応の政変]]で幽閉された将軍・[[足利義稙]]を救出し、放生津館([[越中公方]])に迎えるなど最盛期を迎えた。長誠の後継者・[[神保慶宗|慶宗]]は主家[[畠山氏]]からの独立を目指し、[[一向一揆]]と手を結んで[[長尾能景]]を討つなどの行動をとったために主君[[畠山尚順]](尚長)の怒りを買い、長尾・畠山連合軍による討伐を受け、[[永正]]17年([[1520年]])新庄の戦いで能景の子・[[長尾為景]]の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった。
やがて天正6年([[1578年]])3月13日に越後で[[上杉謙信]]が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は[[富山城]]に入城して神保氏の実権を取り戻した。しかし[[天正]]10年([[1582年]])[[3月]]、[[小島職鎮]]らが[[甲斐国]]の[[武田勝頼]]の流した虚報(武田領内に押し寄せた織田・徳川両軍を勝頼が悉く討ち果たしたとのもの)をうけて一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保氏は滅びた(『[[信長公記]]』)。▼
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[[紀伊国|紀伊]]畠山氏に仕えた[[神保春茂]]は[[豊臣政権]]期に[[高市郡]]6千石に封ぜられ、 その子の[[神保相茂]]は[[関ヶ原の戦い]]の戦功で千石の加増を受けた。しかし[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]][[天王寺の戦い]]で相茂をはじめとする神保勢は大多数が討ち死に、壊滅した。相茂の子[[神保茂明|茂明]]は幼少であったが父の遺領を継ぐことを許され、その家系は大身[[旗本]]として存続した<ref>{{Cite book|和書|title = 寛政重脩諸家譜 第7輯|id = {{NDLJP|1082721}} |publisher = 國民圖書|date = 1923|doi = 10.11501/1082721|page=156-157}}</ref>。茂明の孫[[板倉重同|重同]]は[[安中藩|上野安中藩]][[板倉氏]]の養子となり、藩主を継いだ。
庶流の[[神保氏張]]の家系は[[佐々成政]]、[[徳川家康]]に仕えて[[旗本]]となった{{Sfn|太田|1934|p=2906}}。会津藩臣神保氏も越中神保氏の出自と伝わる。また、長誠から分かれた紀伊神保氏も、[[豊臣氏]]、[[徳川氏]]に仕えて旗本として生き残っている。
日本最大の書店街として知られる東京の[[神田神保町|神保町]]の地名は、[[元禄]]年間([[1688年]] - [[1704年]])に旗本の[[神保長治]]が屋敷を構え、屋敷に面した道路が「神保小路」と呼ばれたことに由来する<ref>{{
== 一族 ==
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* [[神保慶宗]] – 長誠の子。[[畠山尚慶]](のち尚順、尚長)より偏諱を賜うが、のちに尚長から独立の姿勢を見せて反乱し敗死。
* [[神保慶明]] – 慶宗の弟とされる。
* [[神保長職]] – 慶宗の子とされる。畠山尚長より偏諱を賜ったとみられる。宗右衛門。出家して宗昌と名乗る。
* [[神保長住]] – 長職の[[長男]]。
* [[神保長城]] – 長職の次男(読みは「ながしろ」「ながくに」などが伝わる)。
* [[神保長国]] – 長職の次男長城と同一人物、または、三男とされるが詳細は不明。
* [[神保昌国|神保昌国(宗四郎)]] – 長国が改名した者と見られるが詳細は不明。[[1579年]]頃には織田・[[神保長住]]に従うものの、[[1581年]]に[[佐々成政]]が越中入国すると[[1582年]]に上杉方より太田の領有と越中支配の委任を約束されて神保覚広、[[小島職鎮]]、[[唐人親広]]らと共に、長住から離反し成政に抗した。[[本能寺の変]]を経て同年7月に覚広、職鎮、親広と伴に[[直江兼続]]へ[[上杉景勝]]の越中出陣要請をした。天正12年9月18日に、職鎮、親広と伴に七尾の[[前田安勝]]宛に、[[須田満親]]が境要害を打ち破り在々を放火しており、上杉方と連盟すれば成政の滅亡は眼前のものと、[[前田利家]]への取りなしを求めた芯状を差し出した 。既に前年([[1583年]])に[[豊臣秀吉]]は、上杉景勝や一向一揆と結んでおり、上杉方の満親は[[小出城]]、[[魚津城]]の開城していた。秀吉の[[富山の役]]([[1585年]])で成政は退陣し、景勝も越中を退いた。[[土肥政繁]]、[[唐人親広]]ほか神保家臣らが景勝の庇護に頼り兼続の下に赴いたのとは対照的に、帰依または帰農して越中における神保氏復権の幕を引いたものと見られる。
* [[神保職広]]<!-- 信頼できる情報源ではないと考えられます <ref>[
* [[神保覚広(信包)]] – 長職の重臣。(生没年不詳。[[1523年]] - [[1577年]]は覚広。読みは「ただひろ」「よしひろ」などが伝わる。 - [[1572年|1582年]]頃は信包。読みは「のぶかね」。なお、職広と覚広の詳しい系譜は不明。「広」の字が共通していることから両者は父子関係にあるとみられる。「信包」は[[織田信長]]の弟・[[織田信包|信包]]に因んだとみられる)。[[1569年]]に[[長尾氏]]と神保氏の仲介を行った人物として伝わる。[[神保長職]]の後、上杉謙信の配下となる。[[1579年]]頃には織田・[[神保長住]]に従うものの[[1582年]]に[[小島職鎮]]、[[唐人親広]]らと共に、長住から離反し長住を幽閉した。[[本能寺の変]]を経て同年7月に昌国らと伴に[[直江兼続]]へ[[上杉景勝]]の越中出陣要請をした。その後、没したと見られる。
* [[神保孝続]]
==== 国氏系(守山神保家) ====
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* [[神保氏長]]
* [[神保氏信]]
▲==== その他一門 ====
▲* [[神保職広]]<!-- 信頼できる情報源ではないと考えられます <ref>[http://takatoshi24.blogspot.jp/2010/11/blog-post_22.html]より</ref>-->{{ndash}}宗家当主・神保長職より偏諱を賜う。
=== 紀伊神保氏 ===
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** [[鞍川清房]]
== 略系図 ==
諸説あって確定できず、諸説を載せる。
○出典:『富山市史』(『富山県史』に同じ){{Sfn|富山市史編さん委員会|1987|p=472}}
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0|01|01=神保国宗}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|.}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|.}}
{{familytree|border=0| |!}}
{{familytree|border=0|01|01=[[神保長職|長職]]}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|.}}
{{familytree|border=0|01|02|03|01=[[神保長住|長住]]|02=[[神保長城|長城]]|03=長国}}
{{familytree/end}}
○出典:『寛政重修諸家譜』{{Sfn|寛政譜|1923|pp=167-168}}
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0| ||||!}}
{{familytree|border=0||||01|~|~|~|~|~|y|02|01=[[神保氏張]]<br>(神保氏純養子)|02=[[織田信秀]]娘<br>([[神保・稲葉夫人]])}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|(|||||||!}}
{{familytree|border=0|01|02|~|03|04|01=女子<br>(斎藤利基妻)|02=氏則|03=[[佐々成政]]娘|04=氏長}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|v|-|-|v|-|-|v|^|-|v|-|-|.}}
{{familytree|border=0|01|02|03|04|05|06|01=氏勝|02=氏房|03=女子<br>(石川某妻)|04=女子<br>(渥美友之妻)|05=女子<br>(紅林某妻)|06=氏信}}
{{familytree/end}}
(茂政以前に10代あるが系図消失で不詳と伝える)
茂政
┃
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== 参考文献 ==
* {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=神保 シンボ ジンバウ|pages=2904-2909|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|chapter-url={{NDLDC|1130938/547}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ncid=BN05000207|oclc=673726070|ref=harv}}
* {{Citation|和書|date=1959-09-13|title=高岡市史|volume=上巻|editor=高岡市史編纂委員会|publisher=[[青林書院]]|id={{NDLJP|3009126}}|ref={{SfnRef|高岡市史編纂委員会|1959}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1987-01-10|title=富山市史|volume=通史<上巻>|editor=富山市史編さん委員会|publisher=[[富山市]]|id={{NDLJP|9540319}}|ref={{SfnRef|富山市史編さん委員会|1987}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|date=1923-06-23|chapter=巻第千百八十二 惟宗氏 神保|title=寛政重脩諸家譜|volume=第七輯|publisher=國民圖書|id={{NDLJP|1082721}}|ref={{SfnRef|寛政譜|1923}}}}{{オープンアクセス}}
== 関連項目 ==
* [[辛科神社]]([[群馬県]][[高崎市]][[吉井町 (群馬県)|吉井町]][[吉井町神保|神保]])
* [[神保]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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{{Pref-stub|pref=和歌山県}}
▲{{Pref-stub|pref=石川県}}
▲{{Pref-stub|pref=富山県}}
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[[Category:神保氏|*
[[Category:日本の氏族|しんほう]]
[[Category:東北地方の氏族|しんほう]]
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