趙達

これはこのページの過去の版です。妃紅 (会話 | 投稿記録) による 2024年1月23日 (火) 17:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

趙 達(ちょう たつ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は不詳。司隸河南尹の出身。九宮一算の術を極めて有名になった。「八絶(江南八絶)」[1]の一人。 妹は孫権の側室の趙夫人。『三国志』呉志に伝がある。

生涯

思考は精緻で綿密であった。若い頃、後漢の侍中であった単甫の下で学問を修めた。後に、東南の地方は王者の気があるので、赴けば難を避けられると考え、身一つで長江を渡った。

趙達は「九宮一算の術」という占術を会得したため、臨機応変に対策を立てる事が出来、人々の疑問に対して的確な判断を下した。飛んでいる蝗の数や、隠された品物の名を占えば、的中しない事は無かった。「飛んでいるものの数などは分かりはしない。でたらめだろう」と言う人に、蓆の上に小豆を撒かせ、その数を占った。一つ一つ数えてみると、占ったとおりの数だった。

ある時、知人の元へ立ち寄ると食事を持て成された。しかし知人は「急なことだったので酒もよい肴もなく、十分におもてなし出来ず申し訳ありません」と謝った。趙達は、箸を算木代わりにして占っていたため「お宅の東壁のもとに一石の美酒があり、鹿肉も三斤あるのに、何故ないと申されるのか」と問うた。すると他にも客がいたので、その知人が隠していたことが皆にわかってしまった。知人は恥じ入って「あなたの占いのお力を知ろうと思ったからでした」と、その場を取り繕った。

またある人が、何千何万という白紙の竹簡を空の倉庫に入れておき、倉庫に封をした後で趙達に占わせた。趙達はその数を当てるとともに「これは名ばかりで、中身はない」とまで言い放った。彼の占いの術はこれほど精妙だった。

彼は自分の術を惜しんで人に明かさなかった。闞沢殷礼ら名だたる儒者や優れた人物が、彼に教えを請うたが全て拒否した。

太史丞の公孫滕は若い時から趙達に師事し、一生懸命学んでいた。趙達は一度、彼に占術を記した書物を授けようと言ったが、公孫滕が約束の日に訪れると、一生懸命探しまわった結果書物が盗まれてしまったと言い、それきり秘伝を伝授する話を立ち消えにしてしまった。

時期は不明だが、孫権に仕えた。

征伐の際、孫権が趙達に結果を占わせると、いつも彼の言うとおりだったという。孫権もまた彼の術を知りたがったが、趙達は教えなかった。そのために疎んじられ、俸禄や官位が全く上がらなかった。

また趙達は、星気や風術を駆使する者達のことを「帷幕の中で算木を廻らせ、戸外に出ずに天道を知るのが占いなのに、昼夜戸外に身をさらして豫兆を読み取ろうとするのは、まことに御苦労千万なことだ」と笑ったという。

ある時、趙達は自分の命運を占ってみた。そして「私の命運は某月某日に尽きると出た。その日に死ぬであろう」と嘆じた。彼の妻は、夫の占いが的中するのを幾度も見てきたので、この言葉を訊いて声を挙げて泣いた。趙達は妻の心を和らげようとして、改めて算木で占い「さっきのは間違いだ。死ぬのはまだ先のことだ」と詐ったが、死んだのは初めに占ったとおりの日だったという。

孫権は、趙達が占術を記した書物を持っていると聞いていたので、彼の死後に書物を手に入れようと、彼の娘を拘禁して責め質した。さらに趙達の棺を開けてまで探したが、結局何も得られなかった。その術は彼の死によって途絶えてしまったという[2]

呉の命運を占う

孫権は帝位に就いた際、趙達に対し「私は天子として何年在位出来るか」と問うた。趙達は「漢の高祖は王朝を建ててから十二年在位されました。しかし陛下はこれに倍されましょう」と言った。実際に、孫権の在位が二十四年に及んでおり、趙達の占いは的中している[3][4]

黄武3年(224年)、曹丕は呉討伐の軍を起こし、広陵まで侵攻してきた。孫権は徐盛の献策を用い、長江沿いに蜿蜒と偽城を築いて抵抗した。そうとは知らぬ曹丕は軍を還したという。この時、孫権は事の成り行きを趙達に占わせた。すると趙達は「曹丕が逃げ出したというものの、呉は庚子の年に滅亡いたします」と言った。孫権が「いつの庚子だ」と訊ねると、趙達は指を屈して計算し「五十八年後でございます」と答えた。孫権は「今のことを憂えるのに手一杯で、遠い先のことまでは考えられぬ。そんなことは子孫たちの問題だ」と言った[5]。その遥か後の天紀4年(280年)庚子の年、晋軍は各方面から呉に侵攻し、孫晧を降伏させ呉を滅ぼした[6]

趙夫人

妹の趙夫人は中国歴史に記録された最初の女性画家である。蚊帳の発明家とされている。『三国志』には名が見当たらないが、『拾遺記』や『歴代名画記』などの文献に散見される。

『拾遺記』によれば、呉宮にあって皇后である潘氏と並ぶ奇女である。女神のようにおしとやかな美人として知られた潘氏とは対に、趙氏は明晰で芸術への造詣の深い才媛だった(巻八「趙、潘二夫人 妍明伎芸 婉孌通神」より))。絵が得意で並ぶ者がおらず、様々な糸を操り龍鳳の錦を作り上げた。宮中では「機絶」と呼ばれた。最初、孫権は魏や蜀漢をまだ平定できていないことを憂い、優れた画家に地図を描かせることを思い付いた。趙達は自分の妹を孫権の夫人として贈った。また、趙夫人が写した江湖や九州山岳の地図を進呈した。さらに趙夫人は、四角い帛の上に五岳と列国の地形を刺繍で作り上げた。当時の人からは「針絶」と呼ばれた。また、膠で糸と髪を連ねて軽い幔を作った。孫権は軍中にいる時も、常にこれを携帯していたという。「絲絶」と褒め称えられた。その三つの才能は、共に「呉の三絶」と呼ばれている。

後に寵愛の独占欲が強い者の中傷を受けて後宮を退出したが、その才能は引き続いて大切にされた。呉の滅亡後に行方不明となった。

参考文献

脚注

  1. ^ 皇象(書)、厳武(囲碁)、宋寿(夢占い)、曹不興(絵画)、鄭嫗(人相判断)、呉範(暦法・風占い)、劉惇(天文・占数)、趙達(九宮一算術)
  2. ^ 三国志』呉志 趙達伝
  3. ^ 韋昭呉書
  4. ^ 正確には在位23年になる。
  5. ^ 韋昭『呉書』
  6. ^ 正確には57年後になる。
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy