ブリュイエール
ブリュイエール(フランス語: Bruyères)は、フランス北部、グラン・テスト地域圏ヴォージュ県のコミューン(基礎自治体)である。
ブリュイエール Bruyères | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | グラン・テスト地域圏 |
県 (département) | ヴォージュ県 |
郡 (arrondissement) | エピナル郡 |
小郡 (canton) | ブリュイエール小郡 |
INSEEコード | 88078 |
郵便番号 | 88600 |
市長(任期) |
イヴ・ボンジャン(Yves Bonjean) (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | ブリュイエール自治体間連合 |
人口動態 | |
人口 |
3,187人 (2013年) |
人口密度 | 199人/km2 |
地理 | |
座標 | 北緯48度12分30秒 東経6度43分16秒 / 北緯48.20833333333度 東経6.72111111111度座標: 北緯48度12分30秒 東経6度43分16秒 / 北緯48.20833333333度 東経6.72111111111度 |
標高 |
平均:493m 最低:390m 最高:704m |
面積 | 16.02km2 (1,602ha) |
公式サイト | http://www.ville-bruyeres.fr/ |
地理
編集ヴォージュ山脈中にあり、エピナルからサン=ディエ=デ=ヴォージュへ向かう街道の中間地点に位置している。街の近郊には分水界があり、北側はモルターニュ川水系、南側はボローニュ川水系である。
歴史
編集ブリュイエールは、6世紀から人が居住し始め、10世紀にロレーヌ公国の一部となり、城塞が建造された。ブルゴーニュ戦争の際、1475年にブルゴーニュ公国によって占領されているが、翌1476年に解放されている。1766年にロレーヌ公国がフランスに併合されたことにより、フランス領となった。
第二次世界大戦中の1944年10月にはブリュイエールの戦いが行われ、日系アメリカ人二世部隊であるアメリカ陸軍第442連隊戦闘団とドイツ国防軍の間で戦闘が行われた。
ドイツ軍はブリュイエール周辺にある4つの高地に堡塁を築いており、米軍はそれぞれA高地(標高575m)、B高地(標高538m)、C高地(標高552m)、D高地(アヴィソン山 標高595m)と名付けていた。10月15日朝、エピナルから移動してきた第442連隊戦闘団は高地への攻撃を開始[1]し、A高地の攻略には第442連隊戦闘団第100歩兵大隊があたったものの、ドイツ軍の機関銃陣地によって進軍を阻まれた[2]。最終的に第100歩兵大隊がA高地を占領するのは10月18日早朝のことで、100人以上のドイツ兵が捕虜となった[3]。
10月21日、第442連隊戦闘団は引き続きC高地を占領した。しかし、第36歩兵師団師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John Ernest Dahlquist)少将の命令により、C高地から撤退させられ、その間にC高地はドイツ軍によって再占領された[4]。そのため、後にC高地を奪回する際に不必要な犠牲を出している[4]。
10月22日、ダールキストの命令により、第442連隊戦闘団はビフォンテーヌ東方で孤立した第36歩兵師団第141歩兵連隊第1大隊(テキサス大隊)を救出するため、ブリュイエールを離れた。この戦闘で、第100歩兵大隊は2度目の大統領部隊感状を授与された[3]。
ブリュイエールはこの戦闘で5000発の砲弾が撃ち込まれ、街の大部分が破壊された[3]。さらに、砲弾によって一帯の樹木に銃弾が入り込み、商品価値がなくなってしまったため、林業も戦後長い間中断せざるを得なくなった[5]。しかし、戦争で破壊された建物は以前の姿に復旧[6]され、ブリュイエールの解放を記念して、街の通りのひとつは442部隊通りと名付けられた[7]。2001年には戦没者慰霊式典が行われ、第442連隊戦闘団の元兵士たちがブリュイエールに招待されて、パレードに参加している[7]。
交通
編集ゆかりの人物
編集姉妹都市
編集脚註
編集参考文献
編集- 渡辺正清『ゴー・フォー・ブローク!:日系二世兵士たちの戦場』光人社、2003年。ISBN 4769826036。