佐藤衡
日本の政治家 (1862-1941)
佐藤 衡(さとう こう)は、明治時代から昭和時代前期の政治家・教育者・漢学者。岩手県東磐井郡長坂村長。号は猊巌(猊嵒とも表記)。猊鼻渓の観光開発と景観保存に尽力[1]した。
佐藤 衡(猊巌)
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生誕 | 文久2年3月14日(1862年4月12日) |
死没 | 昭和16年(1941年)7月10日 |
墓地 | 安養寺(岩手県一関市) |
国籍 | 日本 |
職業 | 政治家、教育者、漢学者 |
配偶者 | 佐藤じん |
略歴
編集文久2年(1862年)3月14日 仙台藩領磐井郡長坂村に佐藤謙治の長男として生まれる。[要出典]
明治8年(1875年) 長坂小学校の助教となる。[要出典]
明治13年(1880年) 岩手師範学校に入学。翌年に卒業し、教職に就く。[要出典]
明治19年(1886年) 宮城県の鮎川小学校校長を拝命。その後、秋田県で教員・県職員を務める。[要出典]
明治33年(1900年) 早稲田大学で法律を学ぶため上京するが、父の病死により帰郷して長坂郵便局長の職を継ぐ。[要出典]
- 大正14年(1924年)猊鼻渓が史蹟名勝天然紀念物保存法第一条により、国の名勝に指定[2]される。
昭和2年(1927年) 毎日新聞社主催の日本百景に猊鼻渓入選。[要出典]
昭和16年(1941年)7月10日 東京市目黒区の娘宅にて死去。享年80。[要出典]
人物等
編集著作
編集- 『東北絶勝猊鼻渓勝誌』(1914年)
- 『猊鼻渓遊覧案内』(1919年)
- 『青山白水楼華甲唱和集』(1922年)
- 『名勝猊鼻渓案内記』(1924年)
- 『渓光集』(1929年)
漢詩人としての佐藤猊巌
編集幼い頃より父から漢学の手ほどきを受けており、漢詩を得意としていた。漢詩人としては森槐南が主宰する随鴎吟社に所属し、機関誌『随鴎集』に多くの作品を投稿した。猊鼻渓の宣伝活動に際しては自身で景色を詠み込んだ詩を賦してアピールに努めたほか、私費を投じて各地の詩友を招いた。
家族
編集関連書籍
編集脚注
編集参考文献
編集- 『東山町史』(岩手県東磐井郡東山町、1978年)