吾輩は猫である
『吾輩は猫である』(わがはい[1][2]はねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
吾輩は猫である 吾輩ハ猫デアル(初版表記) | ||
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著者 | 夏目金之助(漱石) | |
発行日 | 1905年10月6日、1906年11月4日、1907年5月19日ほか | |
発行元 | 服部書店・大倉書店ほか | |
ジャンル | 風刺、喜劇 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 3分冊 | |
ページ数 | 上290、中238、下218 | |
ウィキポータル 文学 | ||
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中学の英語教師珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に飼われる猫が、主人や家族、あるいはそこに集まる迷亭、寒月、東風、独仙らといった高等遊民たちの言動を観察・記録して、人間の愚劣さや滑稽さ、醜悪さを痛烈に批判し、嘲笑するという趣向の小説である[3]。作中では金権主義の実業家に対する罵倒など、漱石の正義感が遺憾なく吐露される[4]一方で、知識人漱石の深い厭世観に根ざす文明批評が、滑稽味と独特に混淆して表現されている[5]。
なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
概要
編集「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的[6]に描かれている。
漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。
現在の『吾輩は猫である』(第一話)に相当する文章は、当初は一話のみの読み切りとして執筆され、虚子らの文章会「山会」[7]1904年12月で朗読され[8][9]好評を博した。そのため第一話は単体で終了しても良い形でまとめられたものであった [10][11]。これを漱石の許可を得た上で虚子が修正し[10][12]、タイトルに相当するものが未定であったものを高浜虚子が決め[13]、1905年1月に『ホトトギス』上で発表した。これが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)[10][注 1]。
語られる話題のいくつかについて、漱石の日記・断片[14]第五から第七までに類似した記述が複数あることが分かっており[15]、漱石が日々構想・着想していた事の作品化でもあった。寒月の身投げの話は寒川鼠骨から、「首つりの力学」は寺田寅彦から聞いたもの[16]であり、他にもまた古代ギリシャ文学から当代の明治文学やイギリス文学まで広範に取材引用され(但しその引用の正確性については迷亭の設定のごとく現在の研究においても疑惑がある[17])、あるいは読者からの手紙や批評家の記述なども作品創作において利用されている。
「吾輩は猫である」の着想については、小説連載途中の1906年(明治39)5月に漱石の友人の藤代素人が『新小説』に「猫文士気燄録」を発表し、その中でドイツロマン派の文学者E.T.A.ホフマンの長編小説『カーテル・ムル(牡猫ムルの人生観)』(1820)の存在を指摘しており、漱石はこれを受け同年8月に発表された本作最終回(第十一)の作品の中で猫の独白の形で、驚きとともにやんわりと否定的に言及している。石崎等によれば漱石は文学史上、ホフマンの猫の存在は知っていた可能性があるかもしれないが、読んでいたという確証はなく、また本作からはその形跡を認めることはできないとし、第十一話ではドイツ産の「カーテル・ムルという見ず知らずの同族」などまったく眼中になかった様子がうかがわれるとしている[18][注 2][注 3][19]。 一般には『吾輩は猫である』の構成は『トリストラム・シャンディ』の影響を強く受けたものと考えられている[20][21][22]。
登場する人物と動物
編集- 吾輩(主人公の猫)
- 珍野家で飼われている雄猫[24][25][26]。本編の語り手。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。三毛子に恋心を抱いている。最後は飲み残しのビールに酔い、水甕に落ちて出られぬまま溺れ死ぬ(第十一話)。毛色は淡灰色の斑入(第六話)、本人曰く「ペルシャ産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆の如き斑入りの肌を有している」とのこと。生年は、苦沙弥先生が猫を描いた年賀状を見ながら「今年は征露の第二年目」と呟いていること(第二話)から1905年(明治38年)とわかるので、その前年の1904年(明治37年)生まれ。年齢は、第七話では「去年生れたばかりで、当年とつて一歳だ」、第十一話では「猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し」。
- 三毛子
- 隣宅に住む二絃琴の御師匠さんの家の雌猫[27]。「吾輩」を「先生」と呼ぶ。猫のガールフレンドだったが風邪をこじらせて死んでしまった(第二話)。「吾輩」が自分を好いていることに気付いていない。
- 車屋の黒
- 大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。しかし、魚屋に天秤棒で殴られて足が不自由になる(第一話)。
- 白
- 軍人の家に飼われる猫。吾輩に尊敬される。子猫を四匹産むが全て書生に棄てられたことを嘆く。第三話以降は登場しない。
- 珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
- 猫「吾輩」の飼い主で、中学校[28]の英語教師(リーダー専門)。父は場末の名主で(第九話)、その一家は真宗(第四話)。年齢は、学校を卒業して9年目か(第五話)、また「三十面(づら)下げて」と言われる(第四話)。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味である(漱石自身がモデルとされる)。あばた面で、くちひげをたくわえる。その顔は今戸焼のタヌキとも評される(第三、八、十話)。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず(第十一話)、平生なら猪口で2杯(第七話)。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖がある(第九話)。なお胃弱で健康に気を遣うあまり、タカジアスターゼを飲み、按腹もみ療治を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。
- 迷亭(めいてい)
- 苦沙弥の友人の美学者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で(第六話)金縁眼鏡を装用し、銀煙管に金唐皮の烟草入を使用する。母や伯父は静岡におり、洋行しようと思えばできるほどの金持ち(第二話)だが独身(第六話)。
- 美学者大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定している[29]。漱石の妻鏡子の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。
- 水島 寒月(みずしま かんげつ)
- 苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を「先生」とよぶ。戸惑いしたヘチマのような顔(第四話)。高校生時代からバイオリンをたしなむ。第三話で富子の母の口から、寒月から富子に惚れたと語られるが、吾輩の見立てでは富子が寒月に一方的に恋慕している(第五話)[30]。故郷は鰹節の名産地(第十一話)。吸うタバコは朝日と敷島。門下生の寺田寅彦がモデルといわれる[31]。
- 越智 東風(おち とうふう)
- 新体詩人で、寒月の友人。「おち こち」と自称している。迷亭たちとの朗読会に金田富子を招待し、後日富子に捧げる五六十枚ほどの詩を書く(第六話)。人間が絶対の域に至る道は芸術と恋であり、夫婦の愛が愛の代表であるから未婚でいることは天の意志にそむくことになるという[32](第十一話)。
- 八木 独仙(やぎ どくせん)
- 哲学者。長い顔にヤギのような髭を生やし、深遠な警句を語る。40歳前後。高木[33]によれば第三話で曽呂崎(天然居士)としても言及される米山保三郎[34]がモデル[35]。
- 甘木先生
- 苦沙弥の主治医、温厚な性格。苦沙弥に乞われ催眠術をかけるが、かからなかった。モデルは尼子四郎と考えられており、執筆時の漱石宅の隣人で、漱石の妻・夏目鏡子が述べているように、四郎は夏目家の家庭医でもあった[36][37][38]。
- 金田(かねだ)
- 近所の実業家。苦沙弥に嫌われている。苦沙弥をなんとかして凹ませてやろうと嫌がらせをする。
- 金田 鼻子(はなこ)
- 金田の細君。寒月と自分の娘との縁談について珍野邸に相談に来るが、横柄な態度で苦沙弥に嫌われ、迷亭による容貌への揶揄は寒月からヒヤヒヤと反応された(第三話)。巨大な鍵鼻の持ち主で「鼻子」と「吾輩」に称される(鼻が大きくて「鼻の圓遊」と呼ばれた明治の落語家初代(実際は三代目[39])三遊亭圓遊にヒントを得て創作されたという説がある[40])。年齢は40の上を少し超したくらい(第三話)。
- 金田 富子(とみこ)
- 金田の娘。母親似でわがままだが、巨大な鼻までは母親に似ていない。父母により多方面で縁談を周旋されており、寒月に対しても恋患いしているかのようにほのめかされている(第二話)。阿倍川餅が大の好物。
- 鈴木 籐十郎(すずき とうじゅうろう)
- 苦沙弥、迷亭の学生時代の同級生。工学士。九州の炭鉱にいたが東京詰めになる(月給250円+盆暮の手当、第五話)。金田家に出入りし、金田の意を受けて苦沙弥の様子をさぐる。
- 多々良 三平(たたら さんぺい)
- 苦沙弥の家の元書生。肥前国唐津の出身[41]。法学士。六つ井物産会社役員(月給30円、第五話)。貯蓄は50円。猫鍋をしきりと恩師である苦沙弥にすすめる(第五話)。
- 牧山(まきやま)
- 静岡在住の迷亭の伯父。漢学者。赤十字総会出席のため上京し、苦沙弥宅を訪問する。丁髷を結い、武士の暗器・鍛錬具である鉄扇を手放さない、まさしく旧幕時代の権化のような人物である(第九話)。
- 珍野夫人
- 珍野苦沙弥の細君。名前はない[42]。英語や小難しい話はほとんど通じない。頭にハゲがあり、身長は低い(第四話)。いびきをかく(第五話)。漱石の妻鏡子がモデルとも。
- 珍野 とん子
- 珍野家の長女。「お茶の水」を「お茶の味噌」と、「元禄」を「双六」と、「火の粉」を「茸(きのこ)」と、「大黒(だいこく)」を「台所(だいどこ)」と、「裏店(うらだな)」を「藁店(わらだな)」と言うような、言葉間違いが多い。顔の輪郭は、南蛮鉄の刀の鍔のようである(第十話)。
- 珍野 すん子
- 珍野の次女。いつも姉のとん子と一緒にいる。顔は、琉球塗りの朱盆のようである(第十話)。
- 珍野 めん子
- 珍野家の三女。「当年とつて三歳」(第十話)。通称「坊ば」。「ばぶ」が口癖。顔は、横に長い面長(おもなが)(第十話)。
- 御三(おさん)
- 珍野家の下女。清(きよ)とも[43]。主人公の猫「吾輩」を好いていない。埼玉うまれ(第八話)。睡眠中に歯ぎしりをする(第五話)。
- 雪江
- 第十話に登場する苦沙弥の姪で女学生。17、8歳。時々珍野邸に来て苦沙弥とケンカする。寒月に対し特別な感情を抱いているかのような写生がある。モデルは久保より江とされる[44]。
- 二絃琴の御師匠さん
- 三毛子の飼い主。「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」である。
- 古井 武右衛門(ふるい ぶえもん)
- 珍野の監督下の中学生。文明中学2年乙組。頭部が大きく毬栗頭。
- 吉田 虎蔵(よしだ とらぞう)
- 警視庁浅草警察署日本堤分署の刑事巡査。
- 泥棒陰士
- 水島寒月と酷似する容貌の窃盗犯。長身で、26、7歳。喫煙者。
- 八(や)っちゃん
- 車屋の子供。苦沙弥先生が怒る度泣くという嫌がらせを金田から依頼された。
構成
編集スターン[45][46]やスウィフトなど中世ヨーロッパの「脱線文学」の伝統を受けた作品の系譜にあり、本作にはあらすじやストーリーめいたものは無い[47][48]。森田草平によれば本作はその場かぎりのものとして書かれたものが世間の評判が良いからと次々と書き継いだものであり、話を引き延ばすために後から捏造してくっつけたような所があり、ある回を書くときは次の回の事などまるで腹案なく、極めて拘束されない自由な心持で「その日その日の風向き次第で出鱈目に」執筆されたもの[49]に違いないと言う。
作中には箴言めいた作者のエスプリがふんだんにちりばめられており、落語調や七五調など朗読したさい聞き手に印象的な表現が多用されている[50]点に特徴がある。参加グループや連載誌がホトトギスである点は軽視するべきでなく本作に含まれる俳諧趣味は重要な論点であるとの指摘がある[51][52]。
- 第1話
- 吾輩の最初の記憶は薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことである。出生の場所は当人の記憶にない(とんと見当がつかぬ)。まもなく書生に見つけだされるが、その時書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであったことをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ笹原に遺棄される。その後大きな池の前、何となく人間臭い所、竹垣の崩れた穴からとある邸内に入り込み、下女に何度もつまみ出されているところを主人である教師(苦沙弥)に拾われ住みつく。人間については飼い主の言動によりわがままであること、また白君や三毛君の話から不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。
- 第2話
- 読者からの便りの紹介。寒月が来て苦沙弥と出かける。吾輩は蒲鉾を頂戴し御三や子供たちの旧悪を暴く。翌日苦沙弥は雑煮を食いタカジアスターゼを飲まない。日記の紹介。バルザックの命名の話。吾輩は雑煮を食って踊りを踊る[53]。吾輩は三毛子に会いに行きお師匠さんの由緒を聞く。黒の気燄を蒙る。寒月の紹介状を持って東風が来る。トチメンボーを食べに行く話[54]。苦沙弥は朗読会の賛成員を依頼される。迷亭からの年賀状の紹介。三毛子が病気になる。苦沙弥が巨人引力[55][56]を邦訳している時に迷亭が来る。寒月が来る。行徳の俎。怪談話。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。
- 第3話
- 金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。
- 第4話
- 吾輩は金田邸に忍び込む。苦沙弥夫婦は口論する。鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。
- 第5話
- 苦沙弥宅に泥棒が入る。刑事が来て告訴状を書く。多々良三平が来て猫鍋を勧める。吾輩はネズミ取りに失敗する。
- 第6話
- 迷亭は帽子と万能鋏を自慢し蕎麦を食う。寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。
- 第7話
- 吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。大町桂月の勧めによって苦沙弥は酒を四杯飲む[57]。
- 第8話
- 落雲館中学校[注 4][58][59]生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。甘木先生の催眠術が苦沙弥に効かない。八木独仙が来て消極の修養を説く。
- 第9話
- 苦沙弥はあばたと髭を気にし、天道公平からの手紙を賞賛する。迷亭が伯父の牧山と共に苦沙弥宅を訪れる。名目読みの話[60][61][62]。刑事吉田虎蔵が泥棒を連れ面通しに来る。
- 第10話
- 苦沙弥は細君に起こされ娘たちと朝飯を済ませ日本堤分署に盗品を受け取りに行く。雪江が遊びに来る。古井が自分の名義で金田の娘に恋文を送られ、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。寒月が来て古井は帰り、苦沙弥は寒月と上野に出かける。
- 第11話
- 主要人物の一堂会合。寒月のヴァイオリン話。寒月は球磨(たまみが)きでの博士号取得をやめ、故郷で結婚して妻を上京させていた。探偵憎悪、近代文明論、夫婦論、女性論。多々良三平は金田富子と婚約を確約した。カーテル・ムル。来客が帰ったあと、多々良の持ってきたビールの飲み残しに吾輩は酩酊し、「猫じゃ猫じゃ」を踊りたくなるほど陽気になり、水甕のなかに転落して水死する。
素材
編集主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である[10]。この猫は1904年の初夏頃に千駄木の夏目の家に潜り込み、早稲田に転居した際にも連れて行かれたが、1908年9月13日に「物置(納屋)のヘツツイ(かまど)の上」[63]で死亡した。その際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した[10]。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である[64]。
『猫』が執筆された当時の漱石邸は東京市本郷区駒込千駄木町(現・文京区向丘2丁目)にあった。この家は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて公開されている。東京都新宿区早稲田南町の漱石山房記念館(漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、戦災で焼損し戦後その残欠から復元したものだという。
最終回で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、これはロバート・バーの『放心家組合』のことである。この事実は、大蔵省の機関誌『ファイナンス』1966年4月号において、林修三によって初めて指摘された[65]。同様の指摘は、1971年2月号の文藝春秋誌上で山田風太郎によっても行われている。 漱石は三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、『猫』は落語の影響が強く見られる作品である[66]。
第三話にて寒月が講演の練習をする「首縊りの力学」は、漱石の弟子で物理学者・随筆家の寺田寅彦が提供した実在の論文、Samuel Haughton "On Hanging ; Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" が基になっている[注 5]。
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千駄木にあった旧漱石邸(愛知県・明治村に移築保存)
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同左
書誌情報
編集1905年1月にのちの第1章に相当する部分が発表され、その後1905年2月(第2章)、4月(第3章)、5月(第4章)、6月(第5章)、10月(第6章)、1906年1月(第7章および第8章)、3月(第9章)、4月(第10章)、8月(第11章)と掲載された。
第1巻(第1章 - 第3章)は1905年10月6日に、第2巻(第4章 - 第7章)は1906年11月4日に、第3巻(第8章 - 第11章)は1907年5月19日に大倉書店と服部書店から刊行された。全1冊としては1911年に刊行された。1918年に岩波茂雄を代表とする漱石全集刊行会から漱石全集の第1巻に収録された(著作権者は長男の夏目純一)。初稿には無かったルビが付され、以降は各出版社により適宜ルビが付されるようになる。
- 夏目金之助『吾輩ハ猫デアル』 上、大倉書店、1905年10月6日、290頁。NDLJP:888725。
- 夏目金之助『吾輩ハ猫デアル』 中、大倉書店、1906年11月4日、238頁。NDLJP:888726。
- 夏目金之助『吾輩ハ猫デアル』 下、大倉書店、1907年5月19日、218頁。NDLJP:888727。
- 夏目漱石『吾輩は猫である』漱石全集刊行会〈漱石全集 第1巻〉、1918年1月1日、606頁。NDLJP:957303。
- 夏目漱石 著、東洋文芸研究会 編著 編『漱石名作選集』(20版)坂東三弘社、1934年6月28日(原著1925年11月30日)。NDLJP:1106011/5。
- 夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』 全3冊、日本近代文学館(出版) 図書月販(発売)〈近代文学館 名著複刻全集 35〉、1968年。 - 大倉書店・服部書店刊(1905-1907)の複製。
- 夏目漱石 著、名著複刻全集編集委員会 編『吾輩ハ猫デアル』 全3冊、日本近代文学館(出版) ほるぷ(発売)〈漱石文学館 名著複刻〉、1976年6月。 - 大倉書店・服部書店刊(1905-1907)の複製。
- 夏目漱石『ザ・漱石』(増補新版)第三書館、1999年6月。ISBN 4-8074-9910-6。
- 夏目漱石『ザ・漱石 全小説全二冊 グラスレス眼鏡無用』 下巻(大活字版)、第三書館、2006年4月。ISBN 4-8074-0601-9。
オーディオブック(朗読)版
編集- 夏目漱石 著 「吾輩は猫である」、ことのは出版、ASIN B0019X3NFQ
派生作品、影響を受けた作品
編集本作を原作として1936年と1975年に映画化されている。(吾輩は猫である (映画)を参照のこと)
多くのパロディ小説も生まれた。『吾輩ハ鼠デアル』(1907年(明治40年)9月刊)、『我輩ハ小僧デアル』(1908年3月刊)などである。三島由紀夫も少年時代(中等科1年)に『我はいは蟻である』(1937年)という童話的な小品を書いており、「我はいは暗い暗い部屋の中で生れ出た。」という幼虫からの書き出しで始まり、変身前の自分を「うじ」と呼んで嫌う人間どもを「人間とは可笑しな動物」と言い、蛹から蟻になった「我はい」が重いビスケットを背負ってそれを舐めて美味しかったエピソードなどが描かれている[67][68]。
2006年代には宮藤官九郎の脚本で昼帯テレビドラマ『吾輩は主婦である』がTBSで放送された。(これは"夏目漱石が乗り移った主婦"が繰り広げるホームコメディ、だったとのこと[69])
2019年には演出家ノゾエ征爾による『吾輩は猫である』が東京芸術祭2019で上演された(これは夏目漱石の作品を下敷きにしつつ、大胆に換骨奪胎し、総勢80名弱のキャストで新基軸の劇世界を作ったものとのこと[70])
映像化作品
編集映画
編集2度映画化された。1936年版と1975年版がある。
テレビドラマ
編集- こども名作座『吾輩は猫である』(NHK)
- 放送日時:1963年3月24日
- 『ふたりは夫婦』第19回「わたくしは細君」~「吾輩は猫である」より~(フジテレビ)
- 放送日時:1975年2月17日(55分1回)
テレビアニメ
編集- 日生ファミリースペシャル『吾輩は猫である』(1982年、フジテレビ系)[72]
- 制作:フジテレビ、東映動画
- 製作:今田智憲
- 企画:栗山富郎(東映動画)、久保田栄一 (フジテレビ)
- 企画コーディネーター:大橋益之助 (大阪電通)
- 脚本:大原清秀
- 演出:りん・たろう
- 撮影:岡芹利明
- キャラクターデザイン:はるき悦巳(猫)、小松原一男(その他)
- 作画監督:小松原一男
- 美術監督:椋尾篁
- エンドロール猫スチール:本橋松二
- 出演者
- 主題歌・エンディング:上野博樹「ベストフレンド」 作詞 - 長田弘 / 作曲 - 森田公一 / 編曲 - 青木望
- 劇中音楽:ヴィヴァルディ「四季」より(演奏:パイヤール室内管弦楽団)
フィルムコミック
編集- 日生ファミリースペシャル『吾輩は猫である』サンケイ出版名作コミックス(上・下)1982年8月5日
まんが
編集- 『漫画 吾輩は猫である』夏目漱石作・近藤浩一路 漫画、1918年。漫画のみではなく、見開きの片面が原作をリライト・縮約した文章で、その対向ページが一コマ漫画になっている。復刊は岩波書店、2017年、ISBN 978-4003357927[73]。
- 『吾輩は猫である』夏目漱石 作・尾崎秀樹 監修・緒方都幸 漫画、旺文社〈旺文社名作まんがシリーズ A1〉、1985年。ISBN 4-01-023401-6。
- 『吾輩は猫である』夏目漱石 作・バラエティ・アートワークス 企画・漫画、イースト・プレス〈まんがで読破〉、2010年。ISBN 978-4-7816-0347-6。
その他
編集関連作品
編集小説
編集- 『それからの漱石の猫』(三四郎、1920年)[77] - 『吾輩は猫である』の続編。1997年に『續吾輩は猫である』のタイトルで復刊[78][79]
- 『贋作吾輩は猫である』(内田百閒、1950年) - 『吾輩は猫である』の続編。1906年に水がめに落っこちた漱石の猫が、這いあがるとそこは1943年だった。風流人たちが繰り広げる珍妙な会話を聞く[80][81]。
- 『「吾輩は猫である」殺人事件』(奥泉光、1996年)
アニメ
編集- アニメ『君の棲む街 ~文京編/早稲田編~』 - ショートアニメ(2分30秒)。監督・脚本:高松明子、キャスト:石川界人、早見沙織、制作:J.C.STAFF。擬人化された2人の猫の物語。両者がモノローグで『吾輩は猫である』と『舞姫』の一節を語る。2015年11月21日に開催された、森鴎外・夏目漱石ら文豪が暮らした街の魅力を発信する「文京・早稲田 文豪ウィーク」のオープニングイベントで公開された。
脚注
編集注釈
編集- ^ 第1回、第2回の連載号は完売し、夏目の「坊つちやん」と同時掲載となった第10回掲載号は5,500部を発行するに至る。これは総合雑誌「中央公論」と同程度であった。
- ^ 『吾輩は猫である』の内容が『牡猫ムルの人生観』に影響を受けているかについては、影響を受けているとする藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの論と、着想を得たのみで内容にまでは影響を受けていないとする吉田六郎、石丸静雄ら、ホフマンあるいは「カーテル・ムル」の存在に接する機会はあったが参照された確証がなく内容としても影響を受けた形跡がないとする大村喜吉、塚本利明、山本健吉、石崎等らの論が混在する。
- ^ このほかに丸谷才一の説があり次のようなものである。丸谷が仙台文学館の初代館長になった井上ひさしに電話をかけ、19世紀初頭によく読まれた『ポピー・ザ・リトル』という俗小説が、子犬が上流から下流階級まですべてを見て回りその見聞を猛烈な社会批判にしているという内容で、漱石がこれを知って『吾輩』を書いたと考えられると言った。すると東北大学の漱石文庫にはないが、これを評価したTHE ENGLISH NOVEL(Walter Raleigh)があるので、何らかの印がないか学芸員に見てきてもらえないかとひさしは依頼した。翌日、学芸員が確認すると、『ポピー・ザ・リトル』の項に、はっきりと線が引かれていた(笹沢信『ひさし伝』新潮社 2012年 pp.390f.)。
- ^ 当時、漱石宅に隣接していた私立郁文館学校、現在の郁文館中学校・高等学校がモデルとされる。
- ^ Samuel Haughton "On Hanging Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" (The Internet Archive) 寺田寅彦 『夏目先生の追憶』に紹介の経緯が書かれている。寺田は「レヴェレンド(Reverend、日本語の「師」にあたる聖職者の尊称)・ハウトン」としているが、正確には、サミュエル・ホートンen:Samuel Haughtonである。 論文の概要については、寅彦の弟子である中谷宇吉郎の 『寒月の「首縊りの力学」その他』を参照。
出典
編集- ^ この「吾輩」という語に対置する英語表現として、漱石自身は「帝王のWe」を充てていると考えられる。昭和42年版「漱石全集」第16巻「補遺」採録「(自著を贈る言葉)-ヤングへ贈れる『吾輩は猫である』の上巻見返しに」によれば、本小説の猫について Herein, a cat speaks in the first person plural, we. Whether regal or editorial, it is beyond the ken of the author to see.(ここでは、猫は一人称複数のWeで話しています。この用法が君主的なものなのか、主筆的なものなのかは、作者の理解を超えています。)とし、直後に this feline King(この猫の大王)と、漱石により説明されている。(塚本利明 2007, p. 72-74)
- ^ 「わがはい」については辞書的には単複いずれの用例もあり(コトバンク「我が輩」)、北澤尚(他)によると「明治30年代以降・・・自称詞によってステータスを誇示するためには・・・「わがはい」が最も相応しかったと考えられる。しかしその一方で・・・話し言葉としては対等の聞き手に対してだけでなく目下の聞き手に対しても拡張して使用されるようになって・・・一部の政治家や軍人や啓蒙家たちを除いて…別の自称詞を代替的に使用するようになっていったことが予想される。」「猫の視点からの一人称の語りを講演速記や談話速記の延長線上に位置づけるなら、人間一般を見下し諷刺する猫の尊大さを強く印象付けるには「わがはい」は最適であったことだろう。また猫の使用する「わがはい」は、明治30年代後半における総合雑誌『太陽』等における政治家や啓蒙家たちによる講演速記や談話速記の語り口を喚起させたはずである。」と解説する。(北澤尚, 祁福鼎 & 趙宏 2010, p. 23)
- ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「吾輩は猫である」三好行雄[1]
- ^ 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)「吾輩は猫である」三好行雄[2]
- ^ 平凡社 改定版世界大百科事典「吾輩は猫である」桶谷秀昭[3]
- ^ あるいは「落語(高等落語)的」集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.290
- ^ 山会というのは「子規が文章には山がなければいかんという事をいったのが初めで、文章会の事を山会と称えるようになったのでありますが、その山というのは、主として滑稽な事が多かったのであります。たとえば、各々自作の文章を朗読するのでありますが、その朗読する時にあたって、聞いている者が、覚えず噴き出すといった、それが恰も落語家が高座に上って話をする時分に、聴衆がドッと笑う、その笑うところが即ち話に山がある。その落語の山のような山が、文章にはなければならん、という子規の主張があったのであります。必ずしも滑稽に限ったことではないのでありますけれども、…山会の文章は、やはり滑稽なところに重きを置くといったような傾きがあったのでありました。」(高浜虚子「俳句の五十年」-「山会」の朗読、角川文庫『吾輩は猫である』巻末付録、P.567)
- ^ 寒川鼠骨が朗読したと漱石は証言している。座談「文学談」(明治39年9月「文学界」)。(参考)角川文庫『吾輩は猫である』巻末付録、P.561
- ^ 寺田寅彦によれば第二回以降は高浜虚子が朗読したという。寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」
- ^ a b c d e 『週刊YEARBOOK 日録20世紀』第85号 講談社、1998年、27-29頁
- ^ 集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.291。
- ^ 一方で明治41年9月「文章世界」に漱石は『処女作追懐談』を公表し、その中で「始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。ところが虚子がそれを読んで、これはいけませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今はまるで忘れて仕舞ったが、兎に角もっともだと思って書き直した。」と書いている。(参考)角川文庫『吾輩は猫である』巻末付録、P.560
- ^ 「漱石は『吾輩は猫である』の第一節を書き終えたときに、どういうタイトルを付けたらよいか迷っていた。『猫伝』にするか、それとも『吾輩は猫である』にするか、なかなか決められず、最後に高浜虚子に相談したところ、高浜虚子は『吾輩は猫である』がいいと決めたのである」(李国棟 1997, p. 23)
- ^ 岩波書店「定本 漱石全集」所収
- ^ 小宮豊隆「夏目漱石」(岩波書店、1938)P.P.500-515, NDLJP:1874642
- ^ 寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」
- ^ この点については「学者的作家として、思想の表現が豊かな点は一致するが、鴎外は精緻で正確な実証的態度を崩さず、漱石は闊達で拘束のない立場で構想を恣(ほしいまま)にしたという相違がある」との批評がある。(岡崎義恵 1969, p. 173)
- ^ 集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.P.287-288。
- ^ なお動物が語り部となる動物寓話の系譜は欧州では珍しくなくイソップにも多くの類例が採録されている。
- ^ 伊藤整は新潮文庫版『吾輩は猫である』の解説において、「しかしこういう筋の発展のない小説を十一回にもわたって漱石が確信をもって書いたということは、彼が『トリストラム・シャンディーの生涯と意見』のような小説があることを知っていたことから来ていることは明らかである。」と記している(p.609、2004)。
- ^ 丸谷才一『思考のレッスン』文春文庫、p.203、2012。
- ^ 塚本利明によるとホフマン「カーテル・ムル」もまたスターン『トリストラム・シャンディ』の影響を強く受けた作品の1つであり、「猫」と「カーテル・ムル」が類似するのは「トリストラム・シャンディ」という共通の材源を多く持つからであるとする。(塚本利明 2007, p. 70-71)
- ^ “神田お散歩MAP 夏目漱石の碑”. 株式会社ライト. 2017年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月23日閲覧。
- ^ 第二話「ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫でございますよ」
- ^ 淡島寒月によれば、猫を芸妓の比喩として言い出したのは仮名垣魯文であり(淡島寒月「明治十年前後」[4])、李国棟によれば仮名書魯文にとって猫は自身の表象であり、漱石にとっては下品な戯作作家の表象であった。(李国棟 1997)
- ^ 漱石はのちのエッセイ集硝子戸の中で自身に多大な影響を与えた兄(夏目大助)が相当年上の上級生から艶書を付けられ閉口し「学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困った」と述べたことを記述している。
- ^ 第一話では三毛君と呼ばれ「三毛君は代言の主人を持っている」と設定された。
- ^ 第十話で生徒の古井が訪問してきた際に「文明中学二年生古井武右衛門」と表現されていることから、文明中学の教員である設定である。
- ^ 「猫」第一が公表されると、漱石のまわりではモデルについての評判が立てられたようで、漱石は門下生の野間真綱にあてて「猫伝中の美学者は無論大塚の事ではない大塚は誰が見てもあんな人ぢゃない。…主人も僕とすれば僕他とすれば他どうでもなる。」と書いている(明治38.1.1付書簡)。(遠藤祐 1960, p. PDF. 4)
- ^ 「金田君の令嬢安倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと云う噂である。」「寒月君は苦味ばしった好男子で、・・・金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの制作物である。」
- ^ 小宮彰「「寒月君」と寺田寅彦 : 西洋文明としての近代科学」『東京女子大学比較文化研究所紀要』第58巻、東京女子大学比較文化研究所、1997年、1-22頁、CRID 1050564287610965632、ISSN 05638186。
- ^ 集英社文庫「吾輩は猫である」下、P.183。
- ^ 髙木雅惠『メリメを通してみた近代日本文学空間のありかた : 漱石、鏡花、三重吉、芥川、堀、三島の場』九州大学〈博士(比較社会文化) 甲第12779号〉、2016年。doi:10.15017/1654607。hdl:2324/1654607。 NAID 500000980538 。
- ^ 1869年-1897年、漱石の第一高等中学校本科一部1年の頃からの友人であり畏友。元は建築を目指していた夏目が英文学への道を決めたのは米山によるとされる。夏目漱石「処女作追懐談」(明治41年9月「文章世界」)[5]、角川文庫「吾輩は猫である」巻末付録
- ^ 高木雅恵「漱石とメリメ : 『吾輩は猫である』における『カルメン』の水浴」『Comparatio』第15巻、九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会、2011年12月、31頁、CRID 1390572174791368704、doi:10.15017/24637、hdl:2324/24637、ISSN 13474286。
- ^ 江川義雄『広島県医人伝』(PDF)江川義雄、1986年 。[リンク切れ]
- ^ 斎藤晴惠「尼子四郎と夏目漱石」『医学図書館』第53巻第1号、日本医学図書館協会、2006年、60-64頁、CRID 1390282679254036096、doi:10.7142/igakutoshokan.53.60、ISSN 04452429。
- ^ 「医学情報 110年の蓄積」日本経済新聞、2013年6月21日44面
- ^ “ステテコの、鼻の、初代三遊亭圓遊 | APP部屋”. エーピーピーカンパニー. 2024年6月9日閲覧。 “ステテコで一世を風靡したこの初代圓遊は実際は三代目である。元来圓遊の名は初代金原亭馬生の前名で、二代目は圓朝の門人新朝が継いだのだが、実際にはこの圓遊が名を大きくしたために、いつとはなく初代となってしまったのである。”
- ^ 日置俊次「夏目漱石における「猫」について」『東京医科歯科大学教養部研究紀要』第32巻、2002年、5頁、doi:10.11480/kyoyobukiyo.32.0_36。「噺家の三遊亭円楽は、漱石の落語好きを指摘して、大きな鼻を利用して客を笑わせる三遊亭円遊(三代目)、通称「鼻の円遊」に惹かれての寄席通いが『吾輩は猫である』の口調や金田鼻子という登場人物に影響を与えていると断言する一人である。」
- ^ 初版では出身地は「筑後の国は久留米の住人」と設定された。このためかモデルは熊本時代の漱石の教え子であり書生をしていたこともある股野義郎だと吹聴されることになり、本人からの再三の苦情によりのちの版では「肥前の国は唐津の住人」と修正された経緯がある。この事実については満韓ところどころ[6]に言及がある。(参考)明治38年・大倉書店版「吾輩は猫である」国会図書館デジタルアーカイブ
- ^ SETH Rajdeep「夏目漱石『吾輩は猫である』第三章を読む―名前のない猫と登場人物―」『言葉と文化』第9巻、名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻、2008年3月、22頁、CRID 1390290699632605184、doi:10.18999/isslc.9.17、ISSN 13455508。
- ^ 「御三」とは台所で働く下女の通称でおさんどんとも呼ぶ。また台所仕事そのものを御三とも表現する。なお近世末頃に上方では「おきよ(どん)」、江戸では「おさん(どん)」と呼称したことが「随・皇都午睡-三・中」に記述されている。精選版日本語大辞典「御三」[7]
- ^ 坂本宮尾「この道をかくゆく : 近代女性俳人伝(2)博多の文芸サロンの女主人……久保より江」『俳壇』第36巻第2号、東京 : 本阿弥書店、2019年2月、135頁、CRID 1521699230693869696、国立国会図書館書誌ID:029443329。
- ^ 漱石は『トリストラム、シャンデー』(江湖文学、江湖文学社、第4号、1897(明治30)年3月5日発行)[8]においてスターンの作品を「どこが頭で尻尾かわからない、海鼠の化物みたいな作品」と論じている。なお向井去来に「尾頭の心元なき海鼠かな」(猿蓑)の句があり、『吾輩は猫である』上篇自序(1905)において「此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な文章である」と記し、『猫』におけるスターンの影響を示唆している。
- ^ 朱牟田夏雄「トリストラム・シャンディの生涯と意見」(コトバンク、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))[9]
- ^ 集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.294
- ^ 石崎等によれば「物語全般の枠組みは断片的で纏まりがなく、またストーリーの展開についてあまり関心がもたれない。あえて主な筋をたどるとしたら、実業家の娘金田富子に惚れられる理学士寒月の縁談話ということになるであろう」としている。集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.302
- ^ 森田草平「吾輩は猫である」『文章道と漱石先生』春陽堂、1919(大正8年)、31-80頁。doi:10.11501/962863。国立国会図書館書誌ID:000000577931 。
- ^ 河野豊「翻訳一斑」『別府大学紀要』第56巻、別府大学会、2015年2月、1-9頁、CRID 1050001337845799168、ISSN 0286-4983。 p.2 より
- ^ 佐々木亜紀子「『吾輩は猫である』の土壌 : 響き合うことば」『愛知淑徳大学国語国文』第29号、愛知淑徳大学国文学会、2006年3月、55-69頁、CRID 1050282676651661696、hdl:10638/1846、ISSN 0386-7307。
- ^ 『猫』に於けるような滑稽趣味を漱石が抱懐するようになったのは、その俳諧精神と英文学的ユーモアとがあずかって力があったであろう。角川文庫「吾輩は猫である」解説・山本健吉、P.546
- ^ 夏目鏡子「漱石の思い出」に、台所で猫が子供の食べ残しの雑煮の餅を食べて前足でもがきながら踊りをおどっていたのを漱石が聞き書きしたとの証言がある。
- ^ なお橡麺棒(とちめんぼう)とは①橡麺すなわちトチの実の粉から作る麺を伸ばす棒、②うろたえる人、あわてもの(「とちめく坊」からの変化とみられる)の意味がある。コトバンク「橡麺棒」[10]
- ^ この原文は『THE NEW CENTURY FIRST READER REVISED』(改訂版、1902年)にあり、これは「第一読本」であり「第二読本」ではない。「幻覚ねこ」ブログ2018.9.24[11]および[12]、『THE NEW CENTURY FIRST READER REVISED』P.70[13]
- ^ 巨人引力の原典調査には先行論文として(大島田人 1958)が存在するが、当時汎(あまね)く利用されていた主要なreaderであるNew national readerには該当箇所が発見できなかったことを報告している。
- ^ 桂月は明治38(1905)年10月に雑誌 「太陽」で本作を取り上げ「漱石は、さっぱりしたる趣を解する人なるも」「趣味せまくして、一部の青年を喜ばしむるに」すぎず「社会の経験に富める人をして甘心せしむるに足らず。詩趣ある代りに、稚気あるを免れず」と評し「ジャムばかり食わず、酒も飲みて…書斎にばかりにこもらずに、社会に飛び出し、山川も跋渉し、猫ばかりを相手にせずに、女をも相手にして、趣味をひろくして」ゆけば良いと書いており、漱石は第7話(明治39(1906)年1月)の作品内でこれに応じたものとなっている。
- ^ 鎌野多美子「夏目漱石と藤代素人―『吾輩ハ猫デアル』を巡って―」『国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要』第30巻第3号、守口 : 大阪国際大学、2017年3月、33-52頁、CRID 1050001338402580096、ISSN 09153586。 脚注92 より
- ^ 郁文館夢学園理事長・校長ブログ、宮﨑宏「郁文館と寄宿舎」2017.9.8[14]
- ^ この箇所について興津要は落語の「くすぐり」が借用された例とし、円遊の「やかん」の中の知ったかぶりをする主人公をうつしたもの、と論じているが、沢庵宗彭「結縄集」に同様の記述があり、同書からのほぼ引き写しの記述とするのが正しい。沢庵宗彭「結縄集」(秋庭宗琢編「沢庵広録・結縄集」(明39.1、国立国会図書館デジタルコレクション))[15]コマ番号283-284、
加藤豊子「『吾輩は猫である』と『文学論』 : 作家的出発をめぐる考察 その二」『山梨県立女子短期大学紀要』第16巻、山梨県立女子短期大学、1983年3月、A46-A47、CRID 1050002213397704576、ISSN 0385-0331。 - ^ 東北大学漱石文庫・澤菴廣録(明治39) 北大学総合知デジタルアーカイブコレクションデータベース
- ^ この他、第九話は「求放心」、無明住地煩悩の心、「間不容髪」「石火の機」など同書所収「不動智神妙録」[16]から話材を採集しており、牧山には「御前は沢菴禅師の不動智神妙録というものを読んだ事があるかい」と述べさせている。
- ^ 夏目漱石の猫の死亡通知」、岩波書店版『漱石全集第14巻』(書簡集、昭和41年発行)所収[17]
- ^ “名前はないが日本一有名な「吾輩(わがはい)」のモデルだった“”(「春秋」日本経済新聞2014年9月13日)。
- ^ “漱石文庫関係文献目録” (PDF). 東北大学附属図書館. 2012年11月25日閲覧。
- ^ 集英社文庫「吾輩は猫である」下、解説・石崎等、P.290
- ^ 決定版 三島由紀夫全集〈補巻〉補遺・索引. 新潮社. (2005年12月isbn=978-4106425837)pp.19-20
- ^ “三島由紀夫文学館**新資料紹介”. 三島由紀夫文学館. 2009年2月26日閲覧。
- ^ TBS公式サイト、吾輩は主婦である
- ^ 東京芸術祭2019「吾輩は猫であるについて」
- ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、220頁。ISBN 4062122227
- ^ “吾輩は猫である - メディア芸術データベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2022年12月17日閲覧。
- ^ “漱石の原作を大胆に脚色!幻の漫画付き『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』が復刊 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト”. serai.jp (2017年4月18日). 2024年6月8日閲覧。
- ^ “オペラ『吾輩は猫である』 – こんにゃく座”. 2024年6月9日閲覧。
- ^ “吾んねー猫どぅやる | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年6月9日閲覧。
- ^ “吾んねー猫どぅやる 完結編 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年6月9日閲覧。
- ^ 三四郎 (1920). それからの漱石の猫. 東京: 日本書院
- ^ 三四郎 (1997). 續吾輩は猫である. 東京: 勉誠社
- ^ 『続吾輩は猫である 復刻』 。
- ^ “贋作吾輩は猫である | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年6月9日閲覧。
- ^ 内田百閒『贋作吾輩は猫である: 内田百閒集成』筑摩書房、2003年5月7日。ISBN 978-4-480-03768-8 。
参考文献
編集- 遠藤祐「「吾輩は猫である」を成立させたもの : 作家漱石の出発をめぐって」『岩手大学学芸学部研究年報』第17巻、岩手大学学芸学部、1960年10月、45-54頁、CRID 1390572174849354112、doi:10.15113/00012407。
- 塚本利明「『吾輩は猫である』における諸問題」『人文科学年報』第37巻、専修大学人文科学研究所、2007年3月、59-101頁、CRID 1390009224825955712、doi:10.34360/00007367、ISSN 03878708。
- 李国棟「「吾輩」はなぜ「猫」であるのか」『国文学攷』第150号、広島大学国語国文学会、1997年6月、15-23頁、CRID 1520009409417227648、ISSN 02873362。
- 岡崎義恵「森鴎外と夏目漱石 (昭和四十四年九月十二日提出)」『日本學士院紀要』第27巻第3号、日本学士院、1969年、169-193頁、CRID 1390001205284744576、doi:10.2183/tja1948.27.169、ISSN 0388-0036。
- 北澤尚、祁福鼎、趙宏「近代日本語の自称詞「わがはい」の共時的特性と動態について」『東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I』第61巻、東京学芸大学学術情報委員会、2010年1月、13-26頁、CRID 1050851418971737472、hdl:2309/107168、ISSN 18804314。
- 大島田人「「巨人、引力」について-「猫」の原典研究-」『明治大学和泉校舎研究室紀要』第11巻、明治大学人文科学研究所、1958年10月、23-36頁、CRID 1050013109570344448、hdl:10291/10869、ISSN 0389-5998。
関連文献
編集- 内田百閒『贋作吾輩は猫である』新潮社、1950年。NDLJP:1706550。 - 『吾輩は猫である』の続篇。
- 内田百閒『贋作吾輩は猫である』筑摩書房〈ちくま文庫 内田百閒集成 8〉、2003年5月7日。ISBN 4-480-03768-3 。
- 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件 純文学書下ろし特別作品』新潮社、1996年1月。ISBN 4-10-600657-X。
- 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』新潮社〈新潮文庫〉、1999年3月。ISBN 4-10-128421-0。
- 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』(電子書籍)新潮社、2009年1月23日。ASIN B00CL6N1M0 。
- 長山靖生『「吾輩は猫である」の謎』文藝春秋〈文春新書 009〉、1998年10月20日。ISBN 978-4-16-660009-0 。
- 南條竹則『あくび猫』文藝春秋、2000年9月10日。ISBN 978-4-16-319540-7 。
- 間宮周吉『吾輩の哲学 再読『猫』のことば』文藝春秋、2010年2月28日。ISBN 978-4-16-008090-4 。
- 関川夏央原作・谷口ジロー作画 『「坊っちゃん」の時代』(1987年-1996年)漫画アクション(双葉社)夏目漱石の飼い猫が登場し、吾が輩は猫であるについても取り上げられている。
外部リンク
編集- 『『吾輩は猫である』上篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『『吾輩は猫である』中篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『『吾輩は猫である』下篇自序』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『吾輩は猫である』:新字新仮名 - 青空文庫
- 『吾輩ハ猫デアル』:旧字旧仮名 - 青空文庫
- 『吾輩ハ猫デアル』 - 国立国会図書館
- 『吾輩は猫である』 パロディ一覧 - ナダ出版センター
- Soseki Project (英語圏向けの漱石教材)
日本テレビ 山一名作劇場 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
吾輩は猫である
(1958年ドラマ) |
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NHK総合テレビ こども名作座 | ||
吾輩は猫である
(1963年ドラマ) |
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フジテレビ系列 日生ファミリースペシャル | ||
吾輩は猫である
(アニメ) |