弓館小鰐

日本の新聞記者、随筆家

弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年明治16年)9月28日 - 1958年昭和33年)8月1日)は日本の新聞記者随筆家毎日新聞で記者として活動した他、『西遊記』などの翻訳でも活動した。本名は芳夫(よしお)。本名での活動も多い。

早慶両チームの記念写真(1904年秋、後列左端が弓館小鰐)

ペンネームは、中学生時代に背が低かったことから「小学生」と呼ばれていたことによる。小鰐生、小鰐狂生、小鰐坊という名義も稀に使用した。

経歴

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岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。1896年(明治29年)、岩手尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学。同学年には言語学者の金田一京助、作家の野村胡堂、政治家の田子一民がおり、2年下の後輩に歌人の石川啄木がいた。

1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)の高等予科に入学。本格的に創部したばかりの野球部に入部し、マネージャー兼選手となる。

1905年(明治38年)、萬朝報の記者となり、1918年(大正7年)には東京日日新聞(現・毎日新聞)に移る。定年までの間に論説委員、運動・校正・写真の各部長などを歴任し、定年後は編集局顧問に就いた。1919年(大正8年)には、日本最古のテニストーナメントである「東京オールドボーイズ庭球大会」(現・毎日テニス選手権(毎トー))の開催を実現させている。また、この間、記者としての活動のかたわらでスポーツ評論によく筆をとった他、エッセイ、中国古典文学の翻訳などでも活動をした。 1937年よりはじまった日中戦争においては戦地の取材にも赴き、同窓で第五師団長を務めていた板垣征四郎、支那派遣艦隊司令長官を務めていた及川古志郎と再会している。

1958年(昭和33年)8月1日、老衰のため自宅で死去。享年74歳[1]

評価

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名文家と評されることがしばしばであり、特に『西遊記』などの翻訳の評価は高い。横田順彌は「『西遊記』など、何種類読んでいるか見当もつかないぐらいだが、いまだに、この弓館訳の右に出る訳に出会わない」[2]と評している。また、筒井康隆は『西遊記』を「この本、もし古本屋で見つけたかたは絶対にお買いなさいね。損はしません。スマートなギャグはまことに秀逸」と評し[3]、「仕事がらみの本を除いたオール・タイム・ベスト」[4]の一つに選んでいる。高島俊男は、『水滸伝』について「弓館小鰐は軽快なスポーツ記事が得意であった(中略)随所に筆者のアドリブが入る陽気な文章である」[5]と評している。

著作

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著書

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単著

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翻訳

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なお、『西遊記』における猪八戒を「ブタ」だと正確に訳した初めての人物である。それまでは「イノシシ」と誤訳されていた。

論文

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  • 「国会野次馬紳士録」『文藝春秋』第28巻第8号、文藝春秋、1950年6月、157-163頁、NAID 40003427389 
  • 「日本野球創生期の豪傑達」『文藝春秋』第28巻第16号、文藝春秋、1950年12月、214-223頁、NAID 40003427108 
  • 「青春の三木武吉」『文藝春秋』第33巻第12号、文藝春秋、1955年6月、160-165頁、NAID 40003425142 

脚注

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  1. ^ 「弓館小鰐氏死去」『読売新聞』1958年8月2日、7面。
  2. ^ 『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』朝日ソノラマ、1993年、101頁
  3. ^ 『幾たびもDIARY』中央公論社、1991年、77頁
  4. ^ 『悪と異端者』 中央公論社 1995年
  5. ^ 『水滸伝と日本人』大修館、1991年、351-355頁

参考文献

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  • 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年
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