沢村大学
安土桃山時代から江戸時代前期の武士
沢村 吉重(さわむら よししげ、永禄3年(1560年) - 慶安3年(1650年)9月17日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武士。肥後細川氏の家臣。沢村大学助とも。
生涯
編集永禄3年(1560年)生まれ。はじめ若狭高浜の領主・逸見昌経[1]に足軽として仕える。
主君・昌経が天正9年(1581年)の京都御馬揃えの参加後まもなく死去し、遺領が溝口秀勝と武田元明に分配されると、丹後国の細川忠興に仕える。
その後、文禄の役や関ヶ原の戦いなどで軍功をたてた。ところが、豊前時代にはある誤解があって主君・忠興の不興を買い、豊前を離れている。大学が忠興のもとに出向くのは17年後のことである。
逸話
編集- 吉重は小男であったため、戦場で組み打ちになると組み伏せられることが多かった。しかし、組み敷かれながらも下から腰の鎧通しを抜いて相手を突き殺すのが得意であったという。
- 吉重の皆朱の鎗が正保2年(1645年)に描かれた肖像画にみえる。実物は熊本県立熊本高等学校にあったとされるが、現在は火事で焼失している。[5]
- 中路周防女という人物にに50石の米を借り17年返済せず、29,880石余にもなり忠興がとりもちして解決したという。
脚注
編集- ^ 逸見氏は甲斐源氏庶流で、若狭守護の武田氏に仕えた。三好氏が勢力を伸ばすとその援軍を得て永禄8年(1565年)に高浜城を築く。織田信長が機内に勢力を伸ばすと従属し、若狭衆筆頭として仕えた。
- ^ 養子の友好以降、友雅-友朗-友常=友隼-友顕=友輔-友貞-友正=友義=沢村重と続き、維新後男爵。
- ^ 鎧通し。刃長一尺四寸。沢村大学助吉重所用。後高田派の作と見られる。差表平造りで身幅の半分以上もある太樋を中心先までかき透す。裏は切羽造りで腰樋。重ね相当厚く、素剣の上に腰樋をかく。
- ^ 拵えは小鍔のついた右手差しになっており、柄頭に孔があけてある。これは、組み打ちで下から敵を刺した際に、吹き出した敵の血が差表の太樋を流下して孔から抜け落ちるように工夫したもので、沢村の名を取って大学拵えと呼ばれる。
- ^ 藤本正行『鎧をまとう人びと―合戦・甲冑・絵画の手びき』。