田村高廣

日本の俳優 (1928-2006)

田村 高廣(たむら たかひろ、1928年昭和3年〉8月31日 - 2006年平成18年〉5月16日)は、日本俳優、田村高広と表記されることもある。阪東妻三郎の長男。弟は田村俊磨(元マネージャー、株式会社タムサプライヤ元社長)、俳優の田村正和田村亮、田村兄弟の長男である。夫人は舞踊家の花柳駒(田村節子)。異母弟に俳優の水上保広がいる。京都府京都市出身。身長170cm[1]。後年は世田谷区三宿に住んでいた。

たむら たかひろ
田村 高廣
田村 高廣
1954年
本名 田村 高廣
生年月日 (1928-08-31) 1928年8月31日
没年月日 (2006-05-16) 2006年5月16日(77歳没)
出生地 日本の旗 日本京都府
身長 170 cm
血液型 O型
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1954年 - 2006年
配偶者 あり
著名な家族 阪東妻三郎(父)
弟:田村俊磨
  田村正和
  田村亮
甥:田村幸士(亮の長男)
主な作品
テレビドラマ
赤穂浪士
太閤記
助け人走る
御宿かわせみ』シリーズ
和っこの金メダル
映画
兵隊やくざ』シリーズ
白い巨塔
天平の甍
泥の河
海と毒薬
阿弥陀堂だより
 
受賞
日本アカデミー賞
優秀助演男優賞
1981年父よ母よ!』『遥かなる走路
動乱』『天平の甍
ブルーリボン賞
助演男優賞
1965年兵隊やくざ
その他の賞
毎日映画コンクール
男優演技賞/男優主演賞
1981年泥の河
紫綬褒章
1991年
勲四等旭日小綬章
1999年
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来歴・人物

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京都府京都市出生、東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。京都府立京都第三中学校(現・京都府立山城高等学校[2]同志社大学経済学部卒業[2]。京都三中在学中に、動員学徒として愛知県中島飛行機半田製作所で働いた経歴を持つ。1944年12月7日、その中島飛行機で勤務中に昭和東南海地震に遭い、発生時刻の13時35分の時はちょうど組み立て中の艦上攻撃機天山」の中に入って作業をしていたことで倒壊した建物の下敷きにはならず、九死に一生を得ている[3]

大学卒業後、東京都内の商社でサラリーマン生活を送るが[2]1953年7月7日に父が急逝。近親者や木下惠介監督などから後を継ぐよう強くすすめられた[2]。父は松竹に借金があり[4]、俳優になれば借金は帳消しにすると松竹から申し出もあった[4]。乗り気ではなかったが長兄として家計を支え[4]父の遺した借金を返済するため[5]、父が死去した際に在籍していた松竹に入社し映画女の園』でデビューした[2]

その後も木下監督作品の常連となり[6]壺井栄原作の『二十四の瞳』を初め、『喜びも悲しみも幾歳月』、『笛吹川』に出演し、演技に磨きをかける。

1963年、松竹退社後はフリーとなった[2]。1964年、大河ドラマの第2作目である『赤穂浪士』に出演した。

1965年の大河ドラマ『太閤記』に出演し、主人公である豊臣秀吉の軍師である 黒田孝高を演じ、阪東妻三郎13回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たす[5]。同年からの『兵隊やくざ』シリーズにて有田上等兵役を好演、勝新太郎とのコンビが人気を呼び、代表作の1つとなった(この演技が認められ、ブルーリボン助演男優賞を獲得)[2]

1969年には『超高層のあけぼの』へ弟の正和と出演することが決定していたが[7]、『トラ・トラ・トラ!』へ出演するために出演を取りやめた。同年には『魔像・十七の首』でテレビ時代劇初主演、この作品でも田村三兄弟が共演を果たした。1971年の大河ドラマ『春の坂道』に沢庵和尚役で出演、この作品でも田村三兄弟が共演した[8]

1973年、必殺シリーズ第3作の『助け人走る』に中山文十郎役で主演[9]、1974年12月には舞台でも同役を演じた。

1975年沢島忠作、梅田コマ劇場の舞台で、田村兄弟が舞台初共演を果たした。1978年の舞台、『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では父妻三郎の代表作である『無法松の一生』の無法松を演じた[10]

1979年、父が主演した『地獄の蟲』のリメーク版で主演を務め[6]1980年、『天平の甍』出演時には鑑真を演じ、中国本土でも知られる様になった。

1981年、『泥の河』に出演(代表作の一つとなった。)1984年『乾いて候』に出演、連続ドラマでは田村三兄弟最後の共演となった(1993年放送のスペシャル版では兄弟最後の共演をした。)

1990年、日本テレビの大型時代劇、『勝海舟』でも田村三兄弟が共演[11]、勝海舟を演じた正和/亮の父親である勝小吉役を演じた。

1996年には再び小栗監督と組み『眠る男』に出演し、これも高い評価を得た。1999年、長年の功績から勲四等旭日小綬章を受賞した[11]

京都府出身のため、プライベートでは京ことばで話していた(京ことばを話す役を演じる際には一般にイメージされる「コテコテの」関西弁ではなく、美しく柔らかい発音で演じることが多く、非常に人気があった)[2]

「美男俳優(二枚目俳優)」としての人気のあった弟とは対照的で、最も父親似の容貌をしており、陰影のある役を得意としていた[2]

2003年、阪東妻三郎50回忌にNHKBSで放送された、『駆けよ!バンツマ』に4兄弟揃って出演した[11]

2006年5月16日午前0時19分、脳梗塞のため急逝[12][13]。77歳没。本人の遺志により、18日の葬儀後に公表された。戒名は慈照院俊岳廣道居士。2007年公開の映画『The焼肉ムービー プルコギ』が最後の映画出演であった[11]

所属事務所は、改めて父・妻三郎の命日である7月7日にお別れ会、天国に送る会を行った[6]。死後の2014年1984年に製作された『朽ちた手押し車』が公開された[14]

人物とエピソード

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  • 性格は、まさに慎重居士で、自身さえも「石橋を叩いても渡らない」と語っている。
  • 松竹は時代劇俳優として売りたいと考えていたが[12] 、派手なことを嫌い、阪妻2世と呼ばれることを極度に嫌い[2]、時代劇への出演を避けていたが[2]、阪妻追悼記念映画『京洛五人男』で時代劇に出演、阪妻専門の殺陣師と入念な打ち合わせの上、ようやく時代劇に出演した[2]。以来、『狼よ落日を斬れ』などの殺陣が評価され、幾度となく「二代目・阪東妻三郎」の襲名を打診されたが、その度に固辞していた[2]。松竹や大映からも襲名を切望され、内田吐夢監督が乃木大将の映画を撮るにあたり、主役で出演の打診をされ、その際にも襲名を希望された[15]。本人は、父親の華やかな雰囲気は自分の柄には合わない、自分のスタイルを確立したいとも述べている[15]
  • 田村三兄弟揃い踏みで阪妻追悼の舞台が行われた際、弟の亮は高廣があまりにも真面目過ぎて疲れたと明かしている[16]。正和は高廣について、歳が離れすぎているから、兄弟というより父親の代わりの様な存在だと話していた[17]
  • 父・阪東妻三郎についてはほとんど会話らしい会話をすることはなく[4]、「ぼくには、怖かったな。直接話したことないですね。食事も奥座敷で母に給仕させ、むずかしい顔をして、一人で食べてました」と語っていた[18]。しかし阪東妻三郎は高廣に名跡を継がないまでも、同じ映画業界で生きていて欲しい。と話していたという[4]。高廣自身は父が本当は、自分に名跡を継いでほしいと思っていたのではないか[4]と回想した。田村自身による回想『剣戟王阪妻の素顔』(ワイズ出版、2001年)がある。
  • 『鬼平犯科帳』第2シリーズ 第12話「雨乞い庄右衛門」にゲスト出演した際、台本では7、8人を刀で斬るとなっていたが、刀では本当は2、3人しか連続して切れないので、「一人一人を刺して確実に殺した方がリアルな立ち回りになる」との田村の提案が採用され、リアルで迫力のある映像となった[19]
  • 池波正太郎は田村について、京都の生まれ育ちであるが、「あいつはなかなか江戸っぽいと」と評価していた[19]。1980年代後半晩年の池波正太郎は、『剣客商売』の次回映像化では田村を秋山小兵衛役に起用する様にと言い残していた[19]、また、池波作品を愛する田村も秋山小兵衛役を熱望していた[19]が、実現されなかった。田村は父阪妻と池波には何かつながるものがあると感じると話していた[19]
  • 京都三中での同級生で作家渡辺一雄による回想記『田村高廣の想い出 日本人への遺言』(ビジネス社、2006年)がある。
  • パイプ煙草を嗜む。雑学見聞の紀行番組ドキュメンタリー番組である「TVムック・謎学の旅」のパイプ煙草を取上げた放送回では案内人役を務め出演、ヨーロッパ各地を訪れパイプ煙草文化を紹介している。

受章・受賞歴

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出演

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映画

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笛吹川』(1960年)
 
兵隊やくざ』(1965年)

テレビドラマ

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舞台

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  • 助け人走る (1974年12月1日-25日、明治座)
  • 東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ(1978年) 田村三兄弟共演
  • 風光り水澄む郷(1981年)
  • 桜月記(1992年)
  • 夢の宴(1993年) 等多数

ナレーション

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  • NHKスペシャル街道をゆく」(1997年) ※司馬遼太郎原作
  • NHKそして歌は誕生した-名曲のかげに秘められた物語-
  • 【LP】 阪東妻三郎 魅力のすべて / ナレーション・父を語る 田村高廣

紀行ドキュメンタリー番組

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脚注

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  1. ^ 1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本映画人名事典 1996 下 176-177頁
  3. ^ 山下文男『戦時報道管制下隠された大地震・津波』新日本出版社、1986年、120-121頁。ISBN 4406014705 
  4. ^ a b c d e f 故 田村正和の長兄・高廣が語った、父・阪東妻三郎との秘話”. mag2 根岸康雄. 2021年8月10日閲覧。
  5. ^ a b “三者三様の田村三兄弟…正和さんの陰りを帯びた繊細さは唯一無二”. スポーツ報知. (2021年5月19日). https://hochi.news/articles/20210518-OHT1T51263.html 2021-06-13<閲覧。 
  6. ^ a b c 二代目襲名を固辞しつつ 父バンツマを敬愛し続けた田村高廣”. シネマプラス (2016年1月31日). 2021年9月22日閲覧。
  7. ^ 報知新聞 (報知新聞社): p. 10. 1969年2月26日
  8. ^ 春の坂道 NHK大河ドラマ
  9. ^ 必殺アワー『助け人走る』よもやま噺
  10. ^ 週刊平凡 1978年1月5日-12日号 p.178-179
  11. ^ a b c d 田村高広とは”. コトバンク. 2021年6月13日閲覧。
  12. ^ a b 田村高廣”. Kinenote. 2021年9月22日閲覧。
  13. ^ 田村高廣”. 映画DB. 2021--8-7閲覧。
  14. ^ 朽ちた手押し車”. 映画.COM. 2021年6月13日閲覧。
  15. ^ a b アサヒグラフ 1966年2月18日号 p.10-15
  16. ^ 春日太一「役者は一日にしてならず」、田村亮へのインタビュー p.271-273
  17. ^ 女性セブン 1976年8月18日 p.50-51
  18. ^ スタア(平凡出版)1975年7月号 P.108
  19. ^ a b c d e 鬼平を極める フジテレビ出版・扶桑社 1994年 田村高廣 インタビューページ70-71
  20. ^ 「秋の叙勲 晴れの受章者 勲四等-勲七等(都内分)」『読売新聞』1999年11月3日朝刊

外部リンク

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