野球界の永久欠番
世界の野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、原則としてほとんどプロ野球の元名選手等の関係者に対して永く称えるために適用される今の選手には与させないその欠番について述べる。
概要
編集野球界における永久欠番の歴史は1939年、MLBアメリカン・リーグのニューヨーク・ヤンキースでルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、現代でも不治の病とされる筋萎縮性側索硬化症(ALS、死後「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる)で引退を余儀なくされたが、戻ってくるまで他の誰にも使わせずに開けておくとする事でチームに居続けることができるとして歓喜した[注釈 1]。
当初はあくまでもヤンキースという一つの球団によるゲーリッグ個人に対してだけの措置であったが[注釈 2]、ナショナル・リーグでニューヨーク・ジャイアンツが1944年にカール・ハッベルの11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となった事で、徐々に広がり各チームが永久欠番を導入していった。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスなど多くのチームは、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。
1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンは20世紀初のアフリカ系アメリカ人選手[注釈 3]としてメジャーリーグに出場し、後世のアフリカ系アメリカ人選手たちがメジャーリーグでプレーする道を切り拓いた。メジャーリーグはこの功績を讃え、マイナーリーグを含む全てのチームでロビンソンの背番号「42」を永久欠番とした。しかし、「42」が永久欠番に指定された時点で既に背番号「42」を使用していた選手やコーチには例外規定が設けられ、彼らは引退するまで(途中でチームを移籍しても)背番号「42」の使用を許された。モー・ボーンもその例外の一人であり、彼はキャリアを通じて「42」を背負い続け、最後にこの番号を着用したアフリカ系アメリカ人選手となった[1][リンク切れ]。当初は約20人の選手やコーチがこの例外規定の対象となっていたが、2013年シーズンに引退したニューヨーク・ヤンキースのマリアノ・リベラを最後に、例外として認められる人物はいなくなった[注釈 4]。ジャッキー・ロビンソンの功績はもちろんのこと、永久欠番の珍しさもあり、アメリカ国外のプロ野球において、アフリカ系の選手がすすんで背番号「42」を選択することがある。特に日本では、「42」が「死」を連想させる忌み数として避けられる傾向があり、他国以上に「42」がアフリカ系の選手に特有の背番号となっている。
その他マイナー・リーグにおいても永久欠番が独自で制定されている[注釈 5]。
日本のプロ野球においてもかなり早い段階で導入している。読売ジャイアンツでプレーしていた黒沢俊夫が1947年6月23日に腸チフスにより33歳の若さで急死。それを受けて1947年7月9日に沢村栄治の「14」とともに「4」が日本のプロ野球界として史上初の永久欠番に指定された。なお、この時点でMLBで永久欠番に指定されていたのは上述のゲーリッグの「4」とハッベルの「11」のみである[3]。
メジャーリーグベースボール(MLB)の永久欠番
編集日本プロ野球(NPB)の永久欠番
編集野球殿堂表彰者 |
チーム | 番号 | 対象の選手名 | ポジション | 指定期日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
読売ジャイアンツ | 1 | 王貞治 | 内野手 | 1989年3月16日 | 1980年の現役引退後、助監督・監督時代(1981年 - 1988年)にも使用している。 |
3 | 長嶋茂雄 | 内野手 | 1974年11月21日 | 第2期監督時代の2000年 - 2001年にも使用している[注釈 6]。 | |
4 | 黒沢俊夫 | 外野手 | 1947年7月9日 | 日本野球界初の永久欠番の一つ。1947年のシーズン途中に現役のまま腸チフスで急死。 | |
14 | 沢村栄治 | 投手 | 1947年7月9日 | 日本野球界初の永久欠番の一つ。引退する1943年まで使用していたが、翌年に戦死した[注釈 7]。 | |
16 | 川上哲治 | 内野手 | 1965年1月18日 | 1958年の現役引退後、コーチ・監督時代(1959年 - 1964年)も使用している[注釈 8]。 | |
34 | 金田正一 | 投手 | 1970年4月2日 | ||
阪神タイガース | 10 | 藤村富美男 | 内野手 | 1958年11月30日 | 球団創設メンバーとして10を着用し、その後引退とともに永久欠番とされた。そのため、阪神で背番号10を着用した経験を持つ選手は藤村のみであり、「一人の選手だけが着用した永久欠番」はNPB唯一である[注釈 9]。 |
11 | 村山実 | 投手 | 1972年11月2日 | 第2期監督時代の1988年 - 1989年にも使用している[注釈 10]。 | |
23 | 吉田義男 | 内野手 | 1987年10月13日 | 1969年の現役引退以降、相応しい人物の入団まで欠番とされたが、結局使用した選手がいないまま、1987年の第二次監督退任に伴い正式に永久欠番とされた[注釈 11]。 | |
中日ドラゴンズ | 10 | 服部受弘 | 投手 | 1960年3月20日 | 二軍監督時代の1977年にも使用している。 |
15 | 西沢道夫 | 内野手 | 1959年3月15日 | ヘッドコーチ・監督時代の1963年 - 1966年にも使用している[注釈 12]。 | |
広島東洋カープ | 3 | 衣笠祥雄 | 内野手 | 1987年9月21日 | [注釈 13] |
8 | 山本浩二 | 外野手 | 1986年10月27日 | 第2期監督時代の2001年 - 2005年にも使用している[注釈 14]。 | |
15 | 黒田博樹 | 投手 | 2016年11月1日 | 2008年のMLB移籍から、2015年に広島に復帰するまでの間も欠番となっていた[4]。 | |
埼玉西武ライオンズ | 24 | 稲尾和久 | 投手 | 2012年7月4日 | 1970年の現役引退後も、1972年までは稲尾自身が監督として着けていた[注釈 15]。 その後、40年の時を経て欠番に指定された[注釈 16]。 |
北海道日本ハムファイターズ | 100 | 大社義規 | オーナー | 2009年2月1日 | 2009年度の野球殿堂入りを記念し、永久欠番に制定された[注釈 17][注釈 18]。 |
東北楽天ゴールデンイーグルス | 10 | ファンナンバー | その他 | 2004年12月17日 | スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人という意味[注釈 19][注釈 20][注釈 21]。 |
77 | 星野仙一 | 監督 | 2018年3月26日 | NPB初の「監督」の永久欠番である[注釈 22][5]。 | |
オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ | 10 | サポーター背番号 | その他 | 2007年 | 新潟のプロ野球団実現を望みながら試合中に急死した野球少年にちなむ形でBCリーグ時代に指定された(詳細は後述)。イースタン・リーグ加入に際して「サポーター背番号」の意味合いを併せ持つ形に変更された[6]。 |
22 | 高津臣吾 | 投手・監督 | 2012年9月22日 | BCリーグ時代の2012年に制定。 |
- 解消した永久欠番
- 近鉄バファローズは鈴木啓示の現役引退を機に、1985年7月31日づけで1を永久欠番に指定した[注釈 23]。その間、鈴木が監督に就任した直後の1993年に、ドラフト5位で入団した大島公一がアマチュア時代に長く着用していた経緯から、永久欠番であることを承知の上で1を希望するという出来事があった[注釈 24][7]。その後、2004年の近鉄とオリックスとの合併を受けて、鈴木本人がオリックス球団から背番号1をオリックスの永久欠番にすることを相談されたが、本人が辞退し[8]、合併後のオリックス・バファローズでは背番号1は永久欠番ではなくなった。合併後最初に背番号1を背負ったのは、合併前のオリックスからの継続となった後藤光尊だった。
名誉番号(準永久欠番)
編集偉大な功績をあげた選手が退団する際、その功績を讃え着用していた背番号を「名誉番号」「準永久欠番」として、前任選手や球団の「預かり」という形で一定の期間空き番号としておく場合がある。MLBにおいては「Honored (Honoured) Number」と称されている。
名誉番号が制定される経緯としては、移籍によって退団した選手が再び球団に戻ってきたときに備えて欠番としておく場合や、その番号を「継承」するにふさわしい選手の台頭を待つことを目的とする場合、永久欠番とすることを検討したものの選手本人に固辞されたり反対意見があったりなどして正式決定に至らなかった場合、不慮の死などに見舞われた人物への追悼の意味を込めてその背番号を凍結する場合、など様々なものがある[9]。
また球団によっては、一部の番号について一般的な名誉番号とは一線を画し、その番号の「継承」に関して一定の明確な条件を定めていることもある(東京ヤクルトスワローズの1[注釈 25]など)。
継続中の名誉番号(通算5年以上のみ)
編集ここでは、対象番号が現役球団関係者より「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」と公式に表明され、かつ通算5年以上欠番状態が続く番号、もしくは長期間欠番状態が続く、事実上の永久欠番の番号を記載する。ただし、2009年から欠番となっている日本ハムの「00」と「0」は趣旨が異なるためここに記載せず、「その他」の節に掲載する。
チーム | 番号 | 欠番対象者 | ポジション | 欠番期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
阪神タイガース | 6 | 金本知憲 | 外野手 | 2013年 - | 2012年の現役引退の際に永久欠番にすることが検討されたが、金本が固辞した事もあり見送られた[注釈 26][10]。 2016年~2018年の監督在任中に再び着用したが、退任後はふさわしい選手が出てくるまで再び欠番となっている[11]。 |
オリックス・バファローズ | 51 | イチロー | 外野手 | 2001年 - | 2001年MLB移籍後、そのまま誰も使用しないまま、2019年シアトル・マリナーズで現役を引退。それを受け、球団は改めて「事実上の永久欠番」としての扱いを継続する事を表明した[12]。 |
北海道日本ハムファイターズ | 11 | ダルビッシュ有 | 投手 | 2018年 - | 2012年のダルビッシュのMLB移籍後、1年空けて新入団の大谷へ継承された。 2018年の大谷のMLB移籍後、球団は「2人に匹敵するスター選手が登場するまで」として連名での欠番とする事を表明[13]。 エスコンフィールドHOKKAIDO内の施設である『TOWER11』でこの2選手を称えている。 |
大谷翔平 | 投手・外野手 | ||||
86 | 大沢啓二 | 監督 | 1995年 - | 2010年に死去した際に永久欠番化が検討されたが、最終的には見送られた[14]。 ただし、現在も欠番状態が継続中であり、また、東急・東映などの前身球団を含めた球団史上でも、86は大沢しか使用していない。 | |
福岡ソフトバンクホークス | 15 | 藤井将雄 | 投手 | 2001年 - | 2000年10月に現役のまま病死。その際、永久欠番化が検討され、さらにその後も15を使用した選手は一人もおらず、親会社がソフトバンクに変わった現在も欠番のままである[15]。 |
89 | 王貞治 | 監督 | 2009年 - | 2008年限りでの監督退任後、永久欠番化も検討されたが王本人が辞退[16]。しかしその後は長期間欠番状態が続いている。 | |
千葉ロッテマリーンズ | 9 | 福浦和也 | 内野手 | 2020年 - | 2019年1月に福浦が現役引退を発表したと同時に、翌年より9番を欠番にすることを球団が表明した[17]。 |
26 | ファンナンバー | その他 | 2005年 - | 2005年よりファンのための番号として事実上の永久欠番にしている。これはベンチ入り25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味である[18]。 試合中、ベンチには26のユニフォームが飾られており、また、ホーム開幕戦での始球式に登板する人物が26番を着用することがある。 |
かつて欠番指定された番号
編集球団から明確に欠番指定されてから、後継の選手に継承されてその役割を終えた時点までの期間を記載。
†:野球殿堂表彰者
- 広島東洋カープ
- 東京ヤクルトスワローズ(ヤクルトスワローズ)
- 横浜DeNAベイスターズ
- オリックス・バファローズ(阪急ブレーブス、オリックス・ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブ)
- 福岡ソフトバンクホークス(福岡ダイエーホークス)
その他
編集- 福岡ソフトバンクホークス
- 90 - 景浦安武(外野手)1973年 - 2015年
- 景浦は、水島新司の野球漫画『あぶさん』に登場する南海ホークスの架空の主力選手。
- 景浦が背番号90を着用していたことから、1973年の連載開始とともに、連載に合わせる形で球団は南海からダイエーを経てソフトバンクに至るまで90を凍結していた(なお、1973年の連載開始以前、球団創設の時点からホークスで背番号90を着用した者はいなかった)。2014年の連載終了後、永久欠番にすることも考慮されていたが、水島の了解を得た上で2016年からロベルト・スアレスが着用することとなり[35]、欠番状態が解消された。スアレスの退団[36]以降は再び欠番となるが、2021年シーズンからはヘッドコーチに就任した小久保裕紀が着用し、その後の二軍・一軍監督就任後も継続着用している[37]。
- 90 - 景浦安武(外野手)1973年 - 2015年
- 北海道日本ハムファイターズ
- 横浜DeNAベイスターズ
- 100 - 欠番扱い(球団に対して貢献のある複数の著名人に贈呈したユニフォームの背番号)1997年 - 2011年
- 1997年より、100を永久欠番と称して、1997年11月11日の桃原功(元宜野湾市議会議員)を最初に、球団に対して貢献が認められた複数の著名人に対し100番が入ったユニフォームを贈呈していた。その後、2012年に育成ドラフト1位で入団した今井金太が100番を着用したことにより、この取扱いは廃止された。
韓国プロ野球(KBO)の永久欠番
編集韓国では、1986年にOBベアーズ(現在の斗山ベアーズ)に捕手として在籍していた金栄伸の54を制定したことに始まる。永久欠番に指定されている選手は現在で16人いる。
台湾プロ野球(CPBL)の永久欠番
編集チーム | 番号 | 欠番対象者 | ポジション | 制定年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
中信兄弟 | 23 | 彭政閔 | 内野手 | 2019年 | チームに19年間在籍。台湾プロ野球史上最高となる出塁率.425をマーク。 |
67 | 曽紀恩 | 監督 | 2012年 | 初代監督。球団社長も務めた。2012年3月25日指定。 | |
統一ライオンズ | 1 | ファンナンバー | その他 | 2015年 | 年間スローガンの発表式で制定された。 |
56 | 劉芙豪 | 外野手 | 2022年 | チーム史上初となる1000安打、100本塁打、100盗塁をマークし、3連覇に大きく貢献した。 | |
富邦ガーディアンズ | 39 | マイク・ローリー | 投手 | 2022年 | 台湾プロ野球の外国人選手としては史上初となる100勝をマーク。 |
楽天モンキーズ | 10 | ファンナンバー | その他 | 2007年 | 年間スローガン「All For Fans」の発表を記念して制定された。 |
52 | 陳金鋒 | 外野手 | 2016年 | 100本塁打をマークし、チームの創成期を支えた。 | |
味全ドラゴンズ | 85 | 徐生明 | 監督 | 2021年 | 当初は富邦の永久欠番であったが、2021年10月16日に引き継ぐ形で制定。 台湾史上初の700勝を挙げる名監督であったが、富邦監督時代の2013年に、前期優勝の後、後期の試合後に心筋梗塞で急逝。 |
2012年シーズン前に、中信兄弟の前身である兄弟エレファンツの林易増の4(2001年~)、王光輝内野手の26(2008~)、統一ライオンズの曽智偵捕手の10(1999~)の永久欠番指定を一斉に解消している。その後兄弟エレファンツは2012年3月25日に初代監督である曾紀恩の番号「67」を改めて永久欠番を制定。
同じく富邦ガーディアンズの前身である、興農ブルズ時代に10がファンの番号、17が黄忠義二塁手の番号として2009年に永久欠番に指定されていたが、2012年に義大ライノズに買収された際にチーム一新として消滅した。
日本の独立リーグの永久欠番
編集四国アイランドリーグplus、ベースボール・チャレンジ・リーグ、北海道フロンティアリーグ、日本海リーグの球団でも永久欠番を制定している球団が存在する。また、日本独立リーグ野球機構(IPBL)に所属していないが、関西独立リーグ(旧・BASEBALL FIRST LEAGUE)についてもここで取り扱う。✝は野球殿堂入り選手。
四国アイランドリーグplusの永久欠番
編集- 0:梶田宙(外野手)[39][40] 2014年9月13日
- 四国アイランドリーグ発足時の選手で、実働10年でリーグ公式戦最多出場を記録[41]。
- 77:弓岡敬二郎(監督)[42] 2016年11月25日
- チーム初のリーグ総合優勝、独立リーグ日本一、前後期優勝とリーグ総合優勝を合わせた完全優勝を達成。2016年監督退任並びにオリックス・バファローズへのコーチ復帰時に永久欠番に指定された。2022年から監督に再任するに当たって再び着用している[43]。
ルートインBCリーグの永久欠番
編集- リーグ全球団
- 10
- リーグ発足前年、急死した新潟県在住の少年野球選手が生前「新潟のプロ野球球団を応援したい」という思いを抱いていたことを遺族の手紙でリーグ創設者の村山哲二が知り、それを励みにリーグを実現させたことから、少年が所属していた野球チームでキャプテンが使用する番号(少年が付けることを望んでいた)をリーグ全球団の永久欠番としている[44]。リーグ発足当初は新潟アルビレックス・ベースボール・クラブだけが永久欠番としていた[45]。2014年の時点では欠番に指定していたのは新潟と信濃グランセローズであった[46]。この段階では10番を付けた選手が在籍する球団があったが、2015年の開幕前に石川ミリオンスターズ[47]および群馬ダイヤモンドペガサス[48]の該当選手が番号を変更したことで、このシーズンよりリーグに10番の選手はいなくなった[49]。
- その後、リーグから西地区4チームが離脱して日本海オセアンリーグを結成し(2022年にリーグ戦開始)、同リーグはこの番号の扱いについて明確にしていなかったが、2022年シーズン開幕時点のロースターでは10番を付ける選手は在籍していなかった[50]。2023年からは日本海オセアンリーグは構成球団を入れ替える形でベイサイドリーグとなり、脱退した富山GRNサンダーバーズと石川ミリオンスターズは新たに日本海リーグを結成したが、2023年の両リーグには10番を付けた選手が在籍しており(千葉スカイセイラーズと石川ミリオンスターズ)[51][52]、いずれもリーグとして欠番扱いは取りやめている。
- 2024年より新潟はイースタン・リーグに移ったが、BCリーグとしてこの番号の扱いを変更するという話は出ていない。
北海道フロンティアリーグの永久欠番
編集- 10:ファンナンバー
- 「応援してくれる皆様の番号」としてサポーターズNo.に指定されている。
日本海リーグの永久欠番
編集- 12:木田優夫(投手) 2014年9月14日
- プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
- 34:森慎二(監督・コーチ・投手)[53] 2017年9月2日
- 監督としてチームを初の独立リーグ日本一に導く。2017年、西武コーチ在任中に急逝し、永久欠番指定された[53]。
さわかみ関西独立リーグの永久欠番
編集- 17:山川和大(投手)[54] 2016年12月28日
- 2016年のドラフト会議で巨人に育成選手指名され、入団決定。その後、山川は2022年に兵庫に復帰したが、背番号は前回所属時とは異なる30を使用する[55]。
- 27:薬師神真之(内野手)[54] 2016年12月28日
- 50:向谷拓巳(内野手)[54] 2016年12月28日
- 2016年のドラフト会議で楽天に育成選手指名され、入団決定。
- 66:山崎章弘(監督)[54] 2016年12月28日
- チーム創設以来指導に携わり(当初はコーチ、2013年より監督)、監督時代は毎年優勝またはそれに準じる成績をあげた。なお、2019年の再任に際して再度着用した(同年限りで退任)。
- 77:田中耀飛(外野手)[57] 2017年12月25日
- 2017年のドラフト会議で、リーグ史上初の支配下登録枠で楽天に指名され、入団決定。
日本のアマチュア野球の永久欠番
編集大学野球
編集- 日米大学野球選手権大会日本チーム(現・侍ジャパン大学日本代表)
-
- 13:東門明(三塁手)1972年 -
- 元早稲田大学野球部三塁手。第1回日米大学野球選手権大会で送球を頭部に受けて急死。
- 13:東門明(三塁手)1972年 -
- 岐阜経済大学(東海地区大学野球連盟)
-
- 15:中野宏紀(投手)(2014年 - )
- 1年時の2014年5月に交通事故死。
- 15:中野宏紀(投手)(2014年 - )
女子プロ野球の永久欠番
編集野球ナショナルチームの永久欠番
編集✝:台湾棒球名人堂の野球殿堂表彰者
- 41:マーク・マグワイア(一塁手)
✝:アメリカ野球殿堂表彰者
- 21:ロベルト・クレメンテ✝(外野手)
- 22:ルーベン・ゴメス(投手)
- 30:オーランド・セペダ✝(一塁手)
✝:アメリカ野球殿堂表彰者
脚注
編集注釈
編集- ^ 引退の際、 "Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth."(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している
- ^ 一例としてベーブ・ルースの「3」が永久欠番に指定されたのは1934年のヤンキース退団から14年後の1948年6月であり、その間に合計7人の選手が背番号「3」のユニフォームを着用している。
- ^ メジャーリーグ史上初のアフリカ系アメリカ人選手は、1884年にトレド・ブルーストッキングスに所属していた「モーゼス・フリート・ウォーカー」とその弟「ウェルデイ・ウォーカー」である。
- ^ ニューヨーク・ヤンキースは球団独自の永久欠番としてマリアノ・リベラの背番号「42」を指定している。ニューヨーク・ヤンキースにおける背番号「42」は、ジャッキー・ロビンソンとマリアノ・リベラ両名に関連した永久欠番となっている。
- ^ 例えば読売ジャイアンツでプレーしたこともあるジェフ・マントはトロント・ブルージェイズ傘下AAA級チームであるバッファロー・バイソンズにおいて優れたリーダーシップによって優勝に貢献したとして、彼が着用していた「30」が永久欠番に指定されている[2]。
- ^ 第1期監督時代は90を使用。第2期監督時代も、1993年から1999年までは33を着用。その後、2000年シーズンよりFAで江藤智が加入したため33番は江藤に譲られ、長嶋は3番を着用することとなった。
- ^ ただし、永久欠番指定前の1946年には今泉勝義と坂本茂も使用していた。
- ^ 1965年からは77を着用。現役時代についても、1946年の一時期は水野忠彦が着用していた。
- ^ MLBではヤンキースの4が同様にルー・ゲーリッグのみの番号となっている他、NPBでは大沢啓二が日本ハムファイターズの監督に就任した際に球団史上初めて86を着用し、退団後より準永久欠番扱いされているという事例がある。
- ^ 第1期監督時代は選手兼任だったため、背番号はそのまま11。背番号11にまつわるエピソードも参照。
- ^ 第1期監督時代は1を、第2期監督時代は81を、第3期監督時代は83を着用。永久欠番に制定されている球団の監督を務めながら、その番号を使用しなかったという珍しいケースである。
- ^ 1967年には68を着用。また、現役時代のうち1938年 - 1946年は17を着用。
- ^ 1974年までは28を着用。
- ^ 第1期監督時代は88を着用。なお、現役時代では1970年まで27を着用しており、8番は翌1971年からである。
- ^ 1973年 - 1974年には81を着用。
- ^ 稲尾の退団から欠番指定までに24を着用したのは古賀正明、トニー・ミューサー、小川史、秋山幸二、ジョージ・ブコビッチ、平野謙、小野和義、金村義明、眞山龍、松永浩典、ライアン・マルハーンの11人。
- ^ それ以前、日本ハムファイターズ時代の1993年から2005年までは、マスコットの「ファイティー」が付けていた。
- ^ 前身の東映フライヤーズ時代には、1962年に初優勝した時、当時のオーナー・大川博が「100」の背番号を付けたユニフォームを着用し、パレードなどに参加したことがあった。なお、東映製作による記録映画として『東映優勝 背番号100』が同年制作・公開されている。
- ^ 球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチは一人もいない。なお、マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの1人として背番号10を着用している。
- ^ ちなみに日本のサッカークラブにおいては同様の発想で、スターティングメンバーの11人に続く12人目のメンバーという意味で「12」をサポーターのための番号として欠番としているチームが多い。永久欠番#サッカー界の永久欠番を参照。
- ^ 当初は「東京六大学野球での主将の番号だった」という理由から西谷尚徳の背番号に内定していたが、「ファンのための欠番」となったことで、入団発表直前に6へと変更された( 広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面)。
- ^ 川上哲治の「16」、長嶋茂雄の「3」、村山実の「11」、山本浩二の「8」など、現役引退後に本人が監督・コーチなどとして再び着用した例は上記のように複数あり、特に王貞治の「1」は巨人時代に選手・監督を通して一貫して着用していたが、「監督」としてのみ着用した背番号が永久欠番になった例はこれが初となる(現役時代の星野は中日で「22」と「20」を着用)。なお、中日と阪神で監督を務めたときにも星野は同様に背番号「77」を着用しているが、両球団では永久欠番には指定されていない。
- ^ 1993年から1995年まで近鉄の監督を務めた時の背番号は70であった。球団は1を着用させる意向を示していたが、本人が辞退して空き番から選んだ。
- ^ 結果的に背番号は00に決定した。その後移籍したオリックスでは52を着用した。
- ^ 1989年の若松勉の現役引退に際し、原則として「球団生え抜き、かつそれに見合う実績を挙げた選手」が「ミスタースワローズ」の称号とともに継承する番号とした。その後は池山隆寛(1992 - 99)、岩村明憲(2001 - 06)、青木宣親(2010 - 11)、山田哲人(2016 - )と引き継がれている。なお、2014年オフに大引啓次がフリーエージェントで移籍加入した際には、契約時に球団から誠意として提示されたが、前述の経緯を尊重して本人が辞退し、2を選択した。
- ^ 金本の固辞の他にも、本拠地球場である阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では6番が「栄光の背番号」として紹介されており、金本以前にも景浦將、藤田平、和田豊など歴代の名選手が代々背負ってきた番号である事から、球団内外でも6を金本「のみ」の番号にする事に対しては異論が多かった。
- ^ 特に、ヤクルト・巨人で主軸打者として実績のあった広澤克実は、球団から「掛布のイメージを払拭して欲しい」という要望を受けてこの番号を着用している。
- ^ 後年の文献・資料では「永久欠番」と記述している物も見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)の記事では「保留欠番」と記述されているため、本項もそれに従う。
- ^ 国鉄時代の根来広光以後、加藤俊夫、大矢明彦、古田と歴代の正捕手が継承してきたが、1989年のみ例外的に投手のロン・デービスが着用した。
- ^ 使用したのは進藤達哉、日高剛、水口栄二、濱中治、赤田将吾、糸井嘉男、吉田正尚、西川龍馬の8人。このうち、オリックス生え抜き選手は日高と吉田の二人のみだった。
- ^ 当時の西日本スポーツ(1968年1月21日)は、「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が(昭和)36年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まった」と報じている。
出典
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