高辻正己
高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 1997年5月20日)は、日本の官僚、裁判官。竹下改造内閣で法務大臣を務めた。甥に外交官の青木盛久がいる。名前は正巳とも[1]。
高辻 正己 たかつじ まさみ | |
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生年月日 | 1910年1月19日 |
出生地 | 日本 静岡県沼津市 |
没年月日 | 1997年5月20日(87歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区 |
出身校 |
東京帝国大学法学部卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 国家公安委員会委員 |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
従二位 勲一等旭日大綬章 |
第48代 法務大臣 | |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月30日 - 1989年6月3日 |
来歴、人物
編集1910年(明治43年)静岡県沼津出身。東京府立四中、旧制三高を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省入省。第二次世界大戦後、1951年(昭和31年)には日ソ交渉全権委員の随行員としてソビエト連邦を訪問している[2]。
その後、地方自治庁部長などを経て、内閣法制次長時代に自衛隊を「必要最小限の戦力」と解釈する。1964年(昭和39年)から1972年(昭和47年)にかけて第1次佐藤内閣~第3次佐藤内閣まで内閣法制局長官を務め、東大確認書問題、自衛隊の交戦権問題、沖縄返還や沖縄公用地問題について法律面から佐藤内閣を支えた。
1972年7月(昭和47年)、佐藤首相の退陣とともに内閣法制局長官を辞任。
1973年(昭和48年)から最高裁判所判事に就任[3]。定年を待たずに辞意を表明して退官した田中二郎の後任[3]。内閣は田中の後任には学者からの起用を考慮していたが適任者が無く、また最高裁判事の中に法制局出身者がいないこともあって、高辻の起用となった[3]。
1980年(昭和55年)に退官し弁護士となる。同年に国家公安委員会委員、勲一等旭日大綬章を受章した。他に1987年に設立された麻薬・覚せい剤乱用防止センター初代理事長を務める。
1988年(昭和63年)12月、リクルート事件が騒がれていた頃にリクルートからの献金問題で長谷川峻法務大臣が辞任に追い込まれると、法律に詳しくリクルートとは無縁な点が評価され、残り2年の任期を残し、国家公安委員会委員を辞任し後任の法務大臣に就任。リクルート事件の捜査終結を見届けると、1989年(平成元年)6月に竹下内閣総辞職とともに退任。
晩年の1990年代半ばに、田原総一朗による「中央公論」連載の回想対談に応じている[4]。
1997年5月20日、敗血症のため東京都港区の病院で死去。享年88(87歳没)。墓所は多磨霊園(22-1-24)。叙・従二位、賜・銀杯一組。
著書
編集- 『立法における常識』学陽書房 1954
- 『憲法講説』良書普及会 1960 地方行政全書
- 『時の舞 高辻正己・雑録集』ぎょうせい (製作) 1988
共編著
編集脚注
編集参考文献
編集- 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403。
- 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126。
関連項目
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 長谷川峻 |
法務大臣 第48代:1988 - 1989 |
次代 谷川和穗 |
先代 林修三 |
内閣法制局長官 第50代:1964 - 1972 |
次代 吉國一郎 |