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「サマルカンド」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== マラカンダ ===
[[紀元前10世紀]]ころから[[イラン系]]民族の[[オアシス]]都市として発展し、ギリシャ史料では[[紀元前4世紀]]の[[アレクサンドロス3世]]率いる[[マケドニア王国]]遠征軍に最後まで抵抗した[[ソグド人]]の都市「'''マラカンダ'''」の名で知られる。『[[後漢書]]』などの[[漢文]]資料では'''康国'''として表れ、[[昭武九姓]]の一つに挙げられ、王族は[[月氏]]の子孫とされている。[[玄奘三蔵]]や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によれば[[ソグディアナ]]、[[マーワラーアンナフル]]の中心と呼ばれている。[[都市国家]]の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。
[[紀元前10世紀]]ころから[[イラン系]]民族の[[オアシス]]都市として発展し、ギリシャ史料では[[紀元前4世紀]]に[[ソグド人]]の都市「'''マラカンダ'''」({{lang-grc|Μαρακάνδα}})は、[[アレクサンドロス3世]]率いる[[マケドニア王国]]遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"({{lang-grc|βράχου της Σογδιανής}})で最後まで抵抗した([[:en:Sogdian Rock|Siege of the Sogdian Rock]])。


=== アフラシヤブ ===
[[712年]]に[[クタイバ・イブン=ムスリム]]によって[[ウマイヤ朝]]のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じて[[ブハラ]]と並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。
『[[後漢書]]』などの[[漢文]]資料では'''康国'''として表れ、[[昭武九姓]]の一つに挙げられ、王族は[[月氏]]の子孫とされている。[[玄奘三蔵]]や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によれば[[ソグディアナ]]、[[マーワラーアンナフル]]の中心と呼ばれている。[[都市国家]]の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。

[[712年]]に[[クタイバ・イブン=ムスリム]]によって[[ウマイヤ朝]]のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じて[[ブハラ]]と並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]で捕虜となった製紙職人によって、[[759年]]にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。


[[1060年]]に成立した中国[[唐]]の歴史書[[新唐書]]西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある<ref>[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/17xintangshu/t-238.htm 新唐書巻二百三十八 列伝第一百四十六下 西域下]</ref>。以後[[サーマーン朝]]の支配を受け、11世紀に[[カラハン朝]]に征服されてからは[[テュルク]]化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、[[1210年]]頃に[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは[[首都]]を[[ウルゲンチ]]からこのサマルカンドへ移した。
[[1060年]]に成立した中国[[唐]]の歴史書[[新唐書]]西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある<ref>[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/17xintangshu/t-238.htm 新唐書巻二百三十八 列伝第一百四十六下 西域下]</ref>。以後[[サーマーン朝]]の支配を受け、11世紀に[[カラハン朝]]に征服されてからは[[テュルク]]化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、[[1210年]]頃に[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは[[首都]]を[[ウルゲンチ]]からこのサマルカンドへ移した。
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後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、[[カイドゥ]]の乱が終結してからは[[ドゥア]]家の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ・ウルス]]の所領として確定した。[[1333年]]、[[イブン・バットゥータ]]は北方の[[ジョチ・ウルス]]から[[ホラズム]]、[[ブハラ|ブハーラー]]を経由して[[タルマシリン]]が治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。
後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、[[カイドゥ]]の乱が終結してからは[[ドゥア]]家の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ・ウルス]]の所領として確定した。[[1333年]]、[[イブン・バットゥータ]]は北方の[[ジョチ・ウルス]]から[[ホラズム]]、[[ブハラ|ブハーラー]]を経由して[[タルマシリン]]が治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。


=== 新市街地 ===
[[14世紀]]末から[[15世紀]]にかけては[[ティムール朝]]の[[首都]]として繁栄。市街地の内部には[[ティムール]]の墓廟である[[グーリ・アミール廟]]や[[ビービー・ハーヌム・モスク|ビビ・ハヌム・モスク]]などが、アフラシヤブには[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]が築かれ、郊外にはティムール朝の王族や[[アミール]]、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。[[西域番国志]]によると、[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた[[陳誠 (明朝)|陳誠]]が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫[[ウルグ・ベク]]の時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)になっている。
[[14世紀]]末から[[15世紀]]にかけては[[ティムール朝]]の[[首都]]として繁栄。市街地の内部には[[ティムール]]の墓廟である[[グーリ・アミール廟]]や[[ビービー・ハーヌム・モスク|ビビ・ハヌム・モスク]]などが、アフラシヤブには[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]が築かれ、郊外にはティムール朝の王族や[[アミール]]、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。[[西域番国志]]によると、[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた[[陳誠 (明朝)|陳誠]]が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫[[ウルグ・ベク]]の時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)になっている。



2013年12月20日 (金) 14:31時点における版

サマルカンド
Samarqand
Самарқанд
ウズベキスタンの旗
レギスタン広場
レギスタン広場
サマルカンドの市章
市章
座標 : 北緯39度39分15秒 東経66度57分35秒 / 北緯39.65417度 東経66.95972度 / 39.65417; 66.95972
行政
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
 州 サマルカンド州
 市 サマルカンド
人口
人口 (2008年現在)
  市域 596,300人
  都市圏 708,000人
世界遺産 サマルカンド‐文化交差路
ウズベキスタン
レギスタン広場
レギスタン広場
英名 Samarkand - Crossroad of Cultures
仏名 Samarkand – carrefour de cultures
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(2),(4)
登録年 2001年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
サマルカンドの位置
使用方法表示

サマルカンド英語: Samarkand; ペルシア語: سمرقند‎ (Samarqand); ウズベク語: Самарқанд (Samarqand))は中央アジアウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械化学綿花皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの現大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。

ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。

歴史

マラカンダ

紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀ソグド人の都市「マラカンダ」(古代ギリシア語: Μαρακάνδα)は、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"(古代ギリシア語: βράχου της Σογδιανής)で最後まで抵抗した(Siege of the Sogdian Rock)。

アフラシヤブ

後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられ、王族は月氏の子孫とされている。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナマーワラーアンナフルの中心と呼ばれている。都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。

712年クタイバ・イブン=ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。751年タラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。

1060年に成立した中国の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある[1]。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは首都ウルゲンチからこのサマルカンドへ移した。

商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。

後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結してからはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定した。1333年イブン・バットゥータは北方のジョチ・ウルスからホラズムブハーラーを経由してタルマシリンが治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。

新市街地

14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミール廟ビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシヤブにはシャーヒ・ズィンダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。西域番国志によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコ世界遺産(文化遺産)になっている。

ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年ジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝ムハンマド・シャイバーニー・ハーンによって征服された。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。

しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝ナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージークタジク人)の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。

気候

気候は大陸性で寒暖の差が激しい。夏は乾燥して日中は40度近い酷暑となるが、標高が702mと高い分、タシュケントよりは暑さは和らぎ、朝晩は比較的涼しい。冬は寒く積雪もあるが年によって違いが大きく、1月平均気温の0度前後を大幅に下回る寒さとなることもあり、過去には-25.4℃を記録している。

サマルカンド [2]の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 22.8
(73)
26.7
(80.1)
31.7
(89.1)
36.2
(97.2)
39.5
(103.1)
41.4
(106.5)
42.4
(108.3)
41.0
(105.8)
38.2
(100.8)
35.2
(95.4)
29.9
(85.8)
26.7
(80.1)
42.4
(108.3)
平均最高気温 °C°F 6.8
(44.2)
9.1
(48.4)
14.2
(57.6)
21.1
(70)
26.4
(79.5)
32.2
(90)
34.1
(93.4)
32.9
(91.2)
28.3
(82.9)
21.6
(70.9)
15.3
(59.5)
9.1
(48.4)
20.9
(69.6)
日平均気温 °C°F 1.6
(34.9)
3.9
(39)
8.5
(47.3)
14.9
(58.8)
19.8
(67.6)
25.0
(77)
26.7
(80.1)
25.2
(77.4)
20.1
(68.2)
13.6
(56.5)
8.4
(47.1)
3.8
(38.8)
14.3
(57.7)
平均最低気温 °C°F −1.7
(28.9)
−0.5
(31.1)
4.0
(39.2)
9.4
(48.9)
13.5
(56.3)
17.4
(63.3)
18.9
(66)
17.4
(63.3)
12.7
(54.9)
7.2
(45)
3.4
(38.1)
−0.2
(31.6)
8.5
(47.3)
最低気温記録 °C°F −25.4
(−13.7)
−22.0
(−7.6)
−14.9
(5.2)
−6.8
(19.8)
−1.3
(29.7)
4.8
(40.6)
8.6
(47.5)
5.9
(42.6)
0.0
(32)
−6.4
(20.5)
−18.1
(−0.6)
−22.8
(−9)
−25.4
(−13.7)
降水量 mm (inch) 44
(1.73)
39
(1.54)
71
(2.8)
63
(2.48)
33
(1.3)
4
(0.16)
4
(0.16)
0
(0)
4
(0.16)
24
(0.94)
28
(1.1)
41
(1.61)
355
(13.98)
出典:Hong Kong Observatory[3]
サマルカンド
雨温図説明
123456789101112
 
 
44
 
6
-3
 
 
39
 
8
-1
 
 
71
 
14
3
 
 
63
 
21
9
 
 
33
 
26
13
 
 
4
 
32
16
 
 
4
 
34
18
 
 
0
 
32
16
 
 
4
 
28
11
 
 
24
 
21
6
 
 
28
 
15
2
 
 
41
 
9
-1
気温(°C
総降水量(mm)
出典:climate-charts.com
インペリアル換算
123456789101112
 
 
1.7
 
43
26
 
 
1.5
 
46
29
 
 
2.8
 
56
38
 
 
2.5
 
69
48
 
 
1.3
 
80
55
 
 
0.2
 
90
62
 
 
0.2
 
93
64
 
 
0
 
90
61
 
 
0.2
 
82
52
 
 
0.9
 
70
43
 
 
1.1
 
59
36
 
 
1.6
 
49
30
気温(°F
総降水量(in)

交通

空路

陸路

日本との関わり

サマルカンドには日本語を学習する学生も多く、特にサマルカンド外国語大学に学習者が多い。

1986年吉田拓郎が『サマルカンド・ブルー』というタイトルのアルバムを発売している。

教育

次のような高等教育機関がある。

など

世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

姉妹都市

関連項目

ギャラリー

参考文献・注釈

外部リンク

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