「セルゲイ・エイゼンシュテイン」の版間の差分
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[[1924年]]には映画に移行し、国家映画委員会の仕事で『[[ストライキ (映画)|ストライキ]]』を製作した。[[1925年]]には彼の代表作とされる『戦艦ポチョムキン』を監督。同作で[[モンタージュ]]理論を確立した。この手法は映画製作理論のひとつの到達点で、観客の感動を揺り動かす映像言語としての基礎となった。その後も『[[十月 (映画)|十月]]』や『{{仮リンク|アレクサンドル・ネフスキー (映画)|ru|Александр Невский (фильм)|en|Alexander Nevsky (film)|label=アレクサンドル・ネフスキー}}』、『[[イワン雷帝 (映画)|イワン雷帝]]』といった作品を次々と世に送り出した。[[1948年]][[2月11日]]、[[モスクワ]]にて50歳で心臓発作で死去した。 |
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*:ロシアを侵略した[[ドイツ騎士団]]を撃退した英雄[[アレクサンドル・ネフスキー]]の物語。音楽を担当した[[セルゲイ・プロコフィエフ]]が、後に演奏会用[[カンタータ]]『[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]』をまとめている。 |
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* [[イワン雷帝 (映画)|イワン雷帝]]・第1部([[1944年]]。{{Lang|rus|''Иван Грозный''}}) |
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2013年12月20日 (金) 06:59時点における版
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン Сергей Михайлович Эйзенштейн | |||||
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生年月日 | 1898年1月10日 | ||||
没年月日 | 1948年2月11日(50歳没) | ||||
出生地 | ロシア帝国、リガ(現 ラトビア) | ||||
死没地 | ソビエト連邦、モスクワ | ||||
国籍 | ソビエト連邦 | ||||
活動期間 | 1923年-1946年 | ||||
配偶者 | Pera Atasheva(1934年-1948年) | ||||
主な作品 | |||||
『戦艦ポチョムキン』、『イワン雷帝』など | |||||
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セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・エイゼンシュテーイン(Серге́й Миха́йлович Эйзенште́йн Sergéj Michájlovič Ėjzenštéjn, Sergei Mikhailovich Eisenstein, ラトビア語: Sergejs Eizenšteins; 1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日) - 1948年2月11日)は、ロシア帝国領のリガに生まれた、ソビエト連邦の映画監督。
曾曽祖父母の世代においてドイツ系ユダヤ人とスウェーデン系の血を引く。ドイツ系ユダヤ人であった曾祖父母の時代には既にユダヤ教から東方正教会に改宗していたため、「バルト・ドイツ人」として紹介されることもある。ユダヤ的な名前(イディッシュ語: אייַז(עֶ)נשטיין, ドイツ語: Eisenstein "鉄石")を持つユダヤ人と紹介されることも多いが、セルゲイ自身は出生後すぐにキリスト教の洗礼を受け、決してユダヤ教徒(ヘブライ語: דָּתִים Dāthī(m), Observant Jew, Orthodox Jew)ではなく、また「ユダヤ人」としての特別なシンパシーがあった明白な証拠はない。
また欧州大陸では民族間の混血は珍しくなく、彼自身にドイツ系やスウェーデン系としての自意識があったかは不明である。少なくとも成人してからは、ソ連人(ロシア人)としての自覚の方が大きかったようである。
年譜
1898年1月10日、ロシア帝国の支配下にあったラトビアのリガに生まれ、大聖堂で洗礼を受ける。サンクトペテルブルク出身の父ミハイル・エイゼンシュテインはロシア正教会に属するユダヤ人の末裔の建築家だった。母はユリヤ・イヴァノヴナ(Ю́лия Ива́новна Эйзенште́йн)。成長すると、リガ市立実科学校、ペトログラード土木専門学校建築科へと進む。1918年、赤軍に入隊し、アマチュア演劇に携わる。復員後は一時参謀本部アカデミーにて日本語を学び、これが後の映画監督としてのキャリアに多大な影響を与えた。1920年にはモスクワに移住し、プロレタリア文化協会(プロレトクリト)の第一労働者劇場に美術担当として参加した。1921年には名演出家であるフセヴォロド・メイエルホリド率いる国立高等演劇工房で演劇を学び、そこでジャック・ロンドンの『メキシコ人』等多くの演劇美術の担当をする。このころ、メイエルホリドの助手を務めつつ、映画の勉強を始めた[1]。
1924年には映画に移行し、国家映画委員会の仕事で『ストライキ』を製作した。1925年には彼の代表作とされる『戦艦ポチョムキン』を監督。同作でモンタージュ理論を確立した。この手法は映画製作理論のひとつの到達点で、観客の感動を揺り動かす映像言語としての基礎となった。その後も『十月』や『アレクサンドル・ネフスキー』、『イワン雷帝』といった作品を次々と世に送り出した。1948年2月11日、モスクワにて50歳で心臓発作で死去した。
作品
モンタージュ理論を確立し自ら実行した人物で、映画史において極めて重要な人物の1人とされている。最も有名な映画作品は1925年の『戦艦ポチョムキン』である。未完に終わった3部作『イワン雷帝』(1944年)はその集大成とされている。ハリウッドとも関係が深く『戦艦ポチョムキン』に感銘を受けソ連を訪れたメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスに会い、その後ハリウッドからの招聘などを通じて人脈を広げた。ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンとは親友である。ウラジーミル・レーニンからは絶賛されたが、ヨシフ・スターリンが政権を握ってからは作品の改変・廃棄を余儀なくされた。『イワン雷帝』は3部作として構想されたが、第1部(1944年)、第2部(1946年)のみ完成した。第1部はスターリン賞を受賞したが、第2部はイワン雷帝と親衛隊の描写が批判され、上映禁止となる(上映は1958年)。直後にスターリンに呼び出されて第2部の改作と第3部の製作を約束させられたが、その後は後進の指導に専念して、製作を事実上放棄している。
エイゼンシュテインと日本・その他
モンタージュ理論が確立されたのはエイゼンシュテインが一時期、日本人教師に漢字を習っていたからだという。漢字という象形文字の持つ抽象的な概念を描写的デザインに表現しているという基本コンセプトから、「身」と「美」で「躾」に、「口」と「鳥」で「鳴」になるなど、全く別の意味になるということに興味を持ったという。このコンセプトを基にモンタージュ理論を開発したという。1920年代の日本映画に関し、エイゼンシュテインは「最近の日本映画は米国映画の真似ばかりをしている。なぜ日本独自の映像美を語ろうとしないのか」と手厳しく批判している。1927年からソ連を訪問した湯浅芳子、宮本百合子の訪問を受け、一緒に写った写真が現存している[2]。
ハリウッドに呼ばれ、喜劇王・チャップリンとテニスに興じる写真などがある。アメリカ人の聴衆に向かって「モニュメントバレーのような壮大なセットがあるにもかかわらず、西部劇のようなものしか撮れないハリウッドはどうかしてる」と一刀両断した。以降、エイゼンシュテインがアメリカに呼ばれることはなかった。また、ディズニーのアニメ『白雪姫と七人の小人』を鑑賞、「映画史に残る史上最高の傑作」と絶賛している。1998年1月23日、ロシア中央銀行はエイゼンシュテイン生誕100周年を記念して15000枚のコインを発行した。表面には『戦艦ポチョムキン』を編集中のエイゼンシュテイン、裏面には撮影中のエイゼンシュテインが描かれてある。
主な監督作品
- アレクサンドル・ネフスキー(1938年。Александр Невский)
- ロシアを侵略したドイツ騎士団を撃退した英雄アレクサンドル・ネフスキーの物語。音楽を担当したセルゲイ・プロコフィエフが、後に演奏会用カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』をまとめている。
- イワン雷帝・第1部(1944年。Иван Грозный)
- イワン雷帝・第2部(1946年)
- ラストシーンのみカラーフィルムを使用している。第2部は疑心暗鬼に駆られたイワンが貴族たちを粛清するさまが描かれる。当時の大粛清を彷彿とさせる設定に、スターリンは激怒した。スターリンの死後までこの作品が公開されることはなかった。
- イワン雷帝・第3部(1946年)
- 未完。一部撮影されたが、フィルムの大部分は廃棄させられ、ごく一部しか現存していないという。残された台本のラストシーンは、罪悪感に打ちひしがれたイワンがそれまで粛清してきた人物の名を読み上げ、懺悔するというものであった。その中には、スターリンによって粛清されたエイゼンシュテインの友人たちの名が密かに取り入れられており、第2部以上にスターリンへの批判が明瞭になっていた。
- メキシコ万歳(1979年)
- 1930年にハリウッド資本からの招聘を受け、その資本で製作が開始されたが、製作姿勢や方針の意見相違などから製作が中断され、そのまま放棄された(ただし、その一部はエイゼンシュテインの許可なく独自の編集が施され、1933年に『メキシコの嵐』としてアメリカで公開されている)。その後、当時助監督を務めていたグリゴリー・アレクサンドロフが撮影済みフィルムをかき集め、エイゼンシュテインのシナリオやコンテに基づいて再編集し、シーンに合わせた音楽を付けたサウンド版として、1979年に公開された。
関連項目
注
- ^ 『増補改訂 新潮世界文学辞典』p148 新潮社 1990年4月20日発行
- ^ 『百合子 輝いて』(新日本出版社、1999年、ISBN 4-406-02647-9)、p22