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「ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)」の版間の差分

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[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の代から北部貴族として[[スコットランド]]の国境警備を担当しており、[[1377年]]に孫の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の戴冠式に出席、ノーサンバランド伯爵を叙爵された。しかし、[[1397年]]に妻の甥にあたる[[ラルフ・ネヴィル (初代ウェストモーランド伯)|ラルフ・ネヴィル]]にウェストモーランド伯爵が授与されるとこれに反発、[[1399年]]、リチャード2世の従弟の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー・ボリングブロク]]が[[クーデター]]を起こすとボリングブロクに寝返り、恩賞として[[マン島]]の支配権を獲得した。
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[[1402年]]にスコットランド軍を子のホットスパーと共に迎撃し、ダグラス伯[[アーチボルド・ダグラス (第4代ダグラス伯)|アーチボルド・ダグラス]]を捕らえたが、間もなくヘンリー4世と対立、ダグラス伯や[[ウェールズ]]で反乱を起こしていた[[オウエン・グレンダワー]]と組んで反旗を翻した。しかし[[1403年]]、{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}}で弟の[[トマス・パーシー (初代ウスター伯)|トマス・パーシー]]とホットスパーが戦死した為降伏。直接反乱に参加しなかったという事で爵位は保たれたが、[[1405年]]に[[ヨーク大司教]][[リチャード・スクループ]]、[[トマス・モウブレー (第4代ノーフォーク伯)|トマス・モウブレー]]と呼応して再度反抗、敗れてスコットランドへ亡命した。この時点で爵位と領土は取り上げられている。
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1408年、イングランドに戻り[[ヨークシャー]]に攻め込んだが、ブラマム・ムーアで戦死。頭は切断され、[[ロンドン橋]]で晒された。孫の[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー]](ホットスパーの遺児)は[[1416年]]に[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]によって爵位を与えられ、復権した。
1408年、イングランドに戻り[[ヨークシャー]]に攻め込んだが、ブラマム・ムーアで戦死。頭は切断され、[[ロンドン橋]]で晒された。孫の[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー]](ホットスパーの遺児)は[[1416年]]に[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]によって爵位を与えられ、復権した。

2015年5月17日 (日) 04:53時点における版

初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーHenry Percy,1st Earl of Northumberland, 1341年11月10日 - 1408年2月20日)は、14世紀後期から15世紀前期のイングランドの貴族である。第3代パーシー・オブ・アニック男爵ヘンリー・ドゥ・パーシーとメアリ・オブ・ランカスター(ヘンリー3世の孫であるランカスター伯ヘンリー・プランタジネットの娘)の長男。妻は第2代ネヴィル・ドゥ・レビー男爵ラルフ・ネヴィルの娘マーガレット・ネヴィル。ヘンリー・パーシー(ホットスパー)の父。

エドワード3世の代から北部貴族としてスコットランドの国境警備を担当しており、1377年に孫のリチャード2世の戴冠式に出席、ノーサンバランド伯爵を叙爵された。しかし、1397年に妻の甥にあたるラルフ・ネヴィルにウェストモーランド伯爵が授与されるとこれに反発、1399年、リチャード2世の従弟のヘンリー・ボリングブロククーデターを起こすとボリングブロクに寝返り、恩賞としてマン島の支配権を獲得した。

1402年にスコットランド軍を子のホットスパーと共に迎撃し、ダグラス伯アーチボルド・ダグラスを捕らえたが、間もなくヘンリー4世と対立、ダグラス伯やウェールズで反乱を起こしていたオワイン・グリンドゥール(オウエン・グレンダワー)と組んで反旗を翻した。しかし1403年シュルーズベリーの戦い英語版で弟のトマス・パーシーとホットスパーが戦死した為降伏。直接反乱に参加しなかったという事で爵位は保たれたが、1405年ヨーク大司教リチャード・スクループトマス・モウブレーと呼応して再度反抗、敗れてスコットランドへ亡命した。この時点で爵位と領土は取り上げられている。

1408年、イングランドに戻りヨークシャーに攻め込んだが、ブラマム・ムーアで戦死。頭は切断され、ロンドン橋で晒された。孫のヘンリー(ホットスパーの遺児)は1416年ヘンリー5世によって爵位を与えられ、復権した。

関連項目


イングランドの爵位
先代
新設
ノーサンバランド伯
1377年 - 1405年
次代
消滅
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