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1959年には、谷川らと別れ、夫婦で、妻の実家であった福岡市に転居<REF>[[森崎和江]]+[[中島岳志]]『日本断層論』(NHK出版新書)P.104</REF>。しかし雑誌『サークル村』には休刊の1960年までかかわった<REF>[[森崎和江]]+[[中島岳志]]『日本断層論』(NHK出版新書)P.104</REF>。 |
1959年には、谷川らと別れ、夫婦で、妻の実家であった福岡市に転居<REF>[[森崎和江]]+[[中島岳志]]『日本断層論』(NHK出版新書)P.104</REF>。しかし雑誌『サークル村』には休刊の1960年までかかわった<REF>[[森崎和江]]+[[中島岳志]]『日本断層論』(NHK出版新書)P.104</REF>。 |
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[[1964年]]3月29日、[[鞍手町]]新延六反田(にのぶろくたんだ)にある[[新目尾炭鉱]](しんしやかのお炭坑、1961年閉山<ref>退職金はもちろん、未払い賃金さえ精算されないまま百数十名が解雇された。上野英信『廃鉱譜』 p.5</ref>)の元・鉱員住宅に家族で移る。ここを「筑豊文庫」と名付けた<ref>上野英信『廃鉱譜』 p.15,40</ref><REF>[http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200607080243.html 首都圏ウオーカーアサヒ「「キジバトの記」〈ふたり〉へ上野英信と晴子―福岡・筑豊」]2018/11/25閲覧</REF>。最初は、[[生活保護]]を打ち切るための調査に来た「[[福祉事務所]]の手先」と周囲に思われ用心された<ref>廃鉱部落の住人たちは、生活保護の金だけでは食っていけないため、福祉事務所の眼をかすめて、なりふり構わず働かねばならなかった。上野英信『廃鉱譜』p.23,26</ref>が、やがて隣人だけでなく、全国から多くの人が取材や見学に訪れるようになる。<ref>上野英信『骨を噛む』p.178</ref>。 |
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水俣病患者に対するチッソ会社の仕打ちに対して、[[1972年]]12月31日から数日間、石牟礼道子、原田奈翁雄と3人、丸の内のチッソ本社前でハンガーストライキを行う。25年前に炭鉱で一緒に働いていた人たちが次々に駆けつけた。<ref>『骨を噛む』p.229,230.</ref> |
水俣病患者に対するチッソ会社の仕打ちに対して、[[1972年]]12月31日から数日間、石牟礼道子、原田奈翁雄と3人、丸の内のチッソ本社前でハンガーストライキを行う。25年前に炭鉱で一緒に働いていた人たちが次々に駆けつけた。<ref>『骨を噛む』p.229,230.</ref> |
2021年3月4日 (木) 17:54時点における版
上野 英信 (うえの えいしん) | |
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ペンネーム | 上野 英信(うえの えいしん) |
誕生 |
上野 鋭之進(うえの えいのしん) 1923年8月7日 日本・山口県吉敷郡井関村 (現・山口県山口市阿知須) |
死没 | 1987年11月21日(64歳没) |
職業 | 記録文学作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 京都大学文学部支那文学科中退 |
活動期間 | 1954年 - 1987年 |
ジャンル | 記録文学 |
代表作 |
『追われゆく坑夫たち』(1960年) 『地の底の笑い話』(1967年) 『出ニッポン記』(1977年) 『写真万葉録・筑豊』(1984年-1986年) |
主な受賞歴 |
西日本文化賞(1984年) 日本写真協会賞(1987年)[1] |
デビュー作 |
『せんぷりせんじが笑った』 (1954年) |
配偶者 |
畑晴子(1926年 - 1997年) (1956年 - 1987年死別)[2] |
子供 | 上野朱(1956年 -) |
ウィキポータル 文学 |
上野 英信(うえの えいしん、本名:上野鋭之進、1923年(大正12年)8月7日 - 1987年(昭和62年)11月21日)は、日本の記録文学作家。
経歴
山口県吉敷郡井関村(現・山口市)生まれ。父の転職により北九州の黒崎に移転。旧制八幡中学から満州国建国大学前期へ進学。
1943年12月1日、学徒出陣により関東軍山砲兵第二十八連隊第五中隊へ入営。1945年8月6日、見習士官として船舶砲兵教導隊第一中隊付の時、広島市宇品において原爆投下に遭遇、被爆する。
復員後は建国大学の閉鎖に伴い、京都大学文学部支那文学科へ編入。青木正児に師事するも、1947年に中退[3]。
1948年1月上旬、奥海老津炭鉱で坑夫として働き始めたが、「学歴詐称」のかどで即時解雇される[4]。以後、高松炭鉱、崎戸炭鉱などで働く。炭鉱労働の傍らで労働者による文芸サークルを組織[5]し、自身も作品を発表し始める。
その後、炭鉱労働者をやめ、国労の書記、クズ鉄商など数多くの職につく[6]。
英信31歳の1954年4月、全九州文学活動者会議に参加、畑晴子を知る[7]。
1954年11月、千田梅二と共同で、初の著作『せんぷりせんじが笑った』を私家版にて出版[8]。翌1955年4月には柏林書房より「ルポルタージュ・シリーズ 日本の証言」として再刊され、記録作家として認知されるようになった[8]。
1958年から、福岡県中間市で谷川雁・森崎和江と、上野夫婦とで隣家ぐらしをはじめる[9]。同1958年、谷川雁・森崎和江と、九州各地の炭鉱労働者の自立共同体・サークル村を結成し、機関誌『サークル村』を刊行。同誌からは石牟礼道子や中村きい子らを輩出した。
1959年には、谷川らと別れ、夫婦で、妻の実家であった福岡市に転居[10]。しかし雑誌『サークル村』には休刊の1960年までかかわった[11]。
1964年3月29日、鞍手町新延六反田(にのぶろくたんだ)にある新目尾炭鉱(しんしやかのお炭坑、1961年閉山[12])の元・鉱員住宅に家族で移る。ここを「筑豊文庫」と名付けた[13][14]。最初は、生活保護を打ち切るための調査に来た「福祉事務所の手先」と周囲に思われ用心された[15]が、やがて隣人だけでなく、全国から多くの人が取材や見学に訪れるようになる。[16]。
水俣病患者に対するチッソ会社の仕打ちに対して、1972年12月31日から数日間、石牟礼道子、原田奈翁雄と3人、丸の内のチッソ本社前でハンガーストライキを行う。25年前に炭鉱で一緒に働いていた人たちが次々に駆けつけた。[17]
1974年、炭鉱閉鎖によって移民として中南米に入植せざるを得なかった労働者たちのその後を追うため、南米で7ヶ月にわたる取材を行う。これがのちの『出ニッポン記』(1977年)となる。
2016年、筑豊文庫に保管されていた書籍・資料を直方市が受け継いだ。2020年7月30日、「筑豊文庫資料室」が直方市立図書館にオープン[18]した。
受賞
著書
- 『せんぷりせんじが笑った!』千田梅二絵 柏林書房(ルポルタージュ・シリーズ―日本の証言〈第7〉) 1955年 /三人社 ルポルタージュ日本の証言(現在の会編) 第7冊 2014.12
- 『親と子の夜』上野英信著 ; 千田梅二画 未来社 1959年[21]
- 『追われゆく坑夫たち』 岩波書店〈岩波新書〉、1960年 / 岩波同時代ライブラリー、1994年
- 『日本陥没期』 未來社、1961年
- 『地の底の笑い話』 岩波書店〈岩波新書〉、1967年 / 2002年[22]
- 『筑豊 : どきゅめんと : この国の火床に生きて』社会新報 1969年
- 『天皇陛下萬歳―爆弾三勇士序説』 筑摩書房、1972年/ちくま文庫 1989年/ 洋泉社〈洋泉社MC新書〉、2007年
- 『骨を噛む』 大和書房、1973年[23]
- 『日本陥没期 : 地底に奪われた死者たち』未来社 1973
- 『出ニッポン記』 潮出版社、1977年 / 社会思想社〈現代教養文庫〉、1995年[24]
- 『廃鉱譜』 筑摩書房〈ちくまブックス〉、1978年
- 『火を掘る日日』大和書房 1979
- 『親と子の夜』 未來社、1982年
- 『ひとくわぼり』上野英信著 ; 千田梅二版画 裏山書房 1982.11
- 『親と子の夜』上野英信,千田梅二画 未来社 1982.10 新装版
- 『眉屋私記』 潮出版社、1984年/海鳥社 2014.11
編著・監修
- 『鉱夫』上野英信編 新人物往来社 1971.11 近代民衆の記録, 2
- 『人間の山』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1984 写真万葉録・筑豊, 1
- 『大いなる火』上下 上野英信, 趙根在監修 葦書房 1984-1985 写真万葉録・筑豊, 2,3
- 『約束の楽土』上下 上野英信, 趙根在監修 葦書房 1984.11-1984.12 写真万葉録・筑豊, 5-6(ブラジル篇 ,パラグアイ・アルゼンチン・ボリビア篇)
- 『カンテラ坂』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1985.5 写真万葉録・筑豊, 4
- 『六月一日』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1985.10 写真万葉録・筑豊, 7
- 『地ぞこの子』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1986.3 写真万葉録・筑豊, 8
- 『アリラン峠』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1986.8 写真万葉録・筑豊, 9
- 『黒十字』上野英信, 趙根在監修 葦書房 1986.12 写真万葉録・筑豊, 10
作品集
- 『上野英信集』全5巻、径書房、1985年-1986年
- 第1巻『話の坑口』1985年
- 第2巻『奈落の星雲』1985年
- 第3巻『燃やしつくす日日』1985年
- 第4巻『闇を砦として』1985年
- 第5巻『長恨の賦』1986年
- 『上野英信集 (戦後文学エッセイ選)』 影書房、2006年
参考文献
- 追悼文集刊行会編 『上野英信と沖縄』 ニライ社、1988
- 追悼録刊行会編 『追悼 上野英信』 同刊行会、1989
- 岡友幸 『上野英信の肖像』 海鳥社、1989
- 中野真琴 『上野英信の生誕地にて』 私家版、1992
- 上野朱・坂口博編 『上野英信著書一覧』 花書院、1993
- 上野晴子 『キジバトの記』 海鳥社、1998
- 上野朱 『蕨の家』 海鳥社、2000
- 松原新一 『幻影のコンミューン―サークル村を検証する』 創言社、2001
脚注
- ^ http://www.psj.or.jp/psjaward/all.html 2016年10月21日閲覧
- ^ 新木安利「上野英信・略年譜」293p 新木安利『サークル村の磁場 上野英信・谷川雁・森崎和江』海鳥社,2011年
- ^ 『新潮日本文学辞典』
- ^ どこのヤマでも小学校卒業でないと坑夫として雇わなかった。上野英信『廃鉱譜』 p.18-19.
- ^ 筑豊炭坑労仂者文芸工作集団『地下戦線(1)』1953年5月
- ^ 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 松下竜一未刊行著作集2、P.209
- ^ a b 道場親信「上野英信『親と子の夜』その三――倉庫の精神史(3)」9p 『未来(474)』未来社,2006年
- ^ 松本輝夫『谷川雁』(平凡社新書)P.83
- ^ 森崎和江+中島岳志『日本断層論』(NHK出版新書)P.104
- ^ 森崎和江+中島岳志『日本断層論』(NHK出版新書)P.104
- ^ 退職金はもちろん、未払い賃金さえ精算されないまま百数十名が解雇された。上野英信『廃鉱譜』 p.5
- ^ 上野英信『廃鉱譜』 p.15,40
- ^ 首都圏ウオーカーアサヒ「「キジバトの記」〈ふたり〉へ上野英信と晴子―福岡・筑豊」2018/11/25閲覧
- ^ 廃鉱部落の住人たちは、生活保護の金だけでは食っていけないため、福祉事務所の眼をかすめて、なりふり構わず働かねばならなかった。上野英信『廃鉱譜』p.23,26
- ^ 上野英信『骨を噛む』p.178
- ^ 『骨を噛む』p.229,230.
- ^ 筑豊文庫資料室が市立図書館内にオープン
- ^ 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 『せんぷりせんじが笑った!』他の数編の絵ばなしをまとめたもの。上野晴子『キジバト記』海鳥社。
- ^ 挿絵は山本作兵衛の作品である。
- ^ 見返し絵は山本作兵衛。
- ^ 解説は松下竜一が書いている。