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16歳の頃、完成直後だった[[鈴鹿サーキット]](1962年秋開業)入口にあった「あなたの愛車でサーキット走れます」の告知看板をみて自分のホンダ・CBを走らせた。そこで良いラップタイムを記録したのをきっかけに、ホンダのレース用車両{{仮リンク|CR93|en|Honda CR93}}に乗る機会を得る。このCRで当時の最速レベルである2'56"秒台を刻み、ホンダファクトリーの目に留まる存在になった。レース競技を主催するMFJ([[日本モーターサイクルスポーツ協会]])が設立されたばかりの頃でもあり、以後ホンダ・CR72やCR77を走らせるライダーとして起用される<ref name="road">カワサキレーシングマシーン創世記 和田将宏 月刊ロードライダー 6月号 26-28頁 [[立風書房]] 1993年6月1日発行</ref>。
16歳の頃、完成直後だった[[鈴鹿サーキット]](1962年秋開業)入口にあった「あなたの愛車でサーキット走れます」の告知看板をみて自分のホンダ・CBを走らせた。そこで良いラップタイムを記録したのをきっかけに、ホンダのレース用車両{{仮リンク|CR93|en|Honda CR93}}に乗る機会を得る。このCRで当時の最速レベルである2'56"秒台を刻み、ホンダファクトリーの目に留まる存在になった。レース競技を主催するMFJ([[日本モーターサイクルスポーツ協会]])が設立されたばかりの頃でもあり、以後ホンダ・CR72やCR77を走らせるライダーとして起用される<ref name="road">カワサキレーシングマシーン創世記 和田将宏 月刊ロードライダー 6月号 26-28頁 [[立風書房]] 1993年6月1日発行</ref>。


オートバイレーサーになると心に決めた18歳で上京、[[船橋市|千葉]]で住み込み整備工として下積みしながら、「ホンダテクニカルスポーツ」の一員として、MFJジュニア250ccクラスに参戦。第3回MFJロードレース鈴鹿でホンダ・CB250(CB72)を駆り優勝する。[[1965年の日本グランプリ (ロードレース)|1965年日本GP]]で併催されたジュニアクラスで乗ったCB72は[[吉村秀雄]]([[ヨシムラジャパン|ヨシムラ]]創業者)がエンジンチューンを手掛けていたが、和田の駆るCBの速さを見た[[本田宗一郎]]がその速さに驚いたという逸話を残す<ref>[https://www.bikebros.co.jp/vb/sports/sfeat/s-yoshimurahistory_05/ ヨシムラヒストリー05] バイクブロス 2019年3月28日</ref>。鈴鹿開業当時から1970年代後半までは[[富士スピードウェイ]]と鈴鹿の対立構図があり、和田は富士で開催されるビッグレースにも出場したいと熱望していたが、「ホンダの人間は鈴鹿だけを走っとけ、みたいな感じがあった。会社(ホンダ)から許可が出なかった(和田談)」という状況があった<ref name="road" />。しかし和田は速い人間が集まる中で走らなければ自分が速くなるわけがないというという考えを持っており、エンジンを担当していた吉村秀雄からも「和田出ろ」と背中を押されたこともあり、会社側の反対を押し切って富士のレースに出場する。これを機にホンダファクトリーから離れた<ref name="road" />。
オートバイレーサーになると心に決めた18歳で上京、[[船橋市|千葉]]で住み込み整備工として下積みしながら、「ホンダテクニカルスポーツ」の一員として、MFJジュニア250ccクラスに参戦。第3回MFJロードレース鈴鹿でホンダ・CB250(CB72)を駆り優勝する。[[1965年の日本グランプリ (ロードレース)|1965年日本GP]]で併催されたジュニアクラスで乗ったCB72は[[吉村秀雄]]([[ヨシムラジャパン|ヨシムラ]]創業者)がエンジンチューンを手掛けていたが、和田の駆るCBの速さを見た[[本田宗一郎]]がその速さに驚いたという逸話を残す<ref>[https://www.bikebros.co.jp/vb/sports/sfeat/s-yoshimurahistory_05/ ヨシムラヒストリー05] バイクブロス 2019年3月28日</ref>。鈴鹿開業当時から1970年代後半までは[[富士スピードウェイ]]と鈴鹿の対立構図があり<ref>4輪レース界では、[[1976年]]に鈴鹿サーキットで[[富士グランチャンピオンレース]]と同規格のビッグ・レースが企画され、トップレーサーの多くも参戦予定だったが富士スピードウェイのオーガナイザーが「鈴鹿に出場したレーサーは以後富士GCへ出場させない」と反発した事例がある 出典・走る人生20年の軌跡 [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]]1991年ポルトガルGP号 12-13頁 1991年10月12日発行</ref>、和田は富士で開催されるビッグレースにも出場したいと熱望していたが、「ホンダの人間は鈴鹿だけを走っとけ、みたいな感じがあった。会社(ホンダ)から許可が出なかった(和田談)」という状況があった<ref name="road" />。しかし和田は速い人間が集まる中で走らなければ自分が速くなるわけがないというという考えを持っており、エンジンを担当していた吉村秀雄からも「和田出ろ」と背中を押されたこともあり、会社側の反対を押し切って富士のレースに出場する。これを機にホンダファクトリーから離れた<ref name="road" />。


1967年に[[片山義美]]の「神戸木の実レーシング」へ移籍、[[川崎重工業|カワサキ]]のワークスライダーとして契約する。1968年、カワサキ・A1Rで全日本250チャンピオンを獲得。以後、大排気量のF750クラスでは、[[ホンダレーシング|ホンダ]]の[[隅谷守男]]と幾多の激戦を繰り広げる。この隅谷とのバトルをしていた時期、転倒リタイヤか優勝かとはっきりしている和田のレースぶりがカワサキを象徴する「男らしさ」であり、転倒で首を[[骨折]]しても復活する和田の姿こそ、後にレースファンやメディアに定着することになる「男カワサキ」の由来ではないか、とチームグリーン監督の平井稔男が当時を回想している<ref>[https://toshihirai.exblog.jp/14972175/ 和田将宏の思い出] TeamGreen監督T.Hiraiのブログ 2011年6月18日</ref>。
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和田 将宏 (わだ まさひろ、: Masahiro Wada1946年10月1日 - ) は、奈良県生まれ、大阪市西成区花園出身の元モーターサイクル・ロードレーサー。1968年の全日本ロードレース選手権セニア250ccクラスチャンピオン。

名は 正宏 表記でエントリーしていた時期が長い(1970年代)。「ミスターカワサキ」、「ミスターヒロ」、「ヒロさん」、「ボス」、などの愛称がある。

経歴

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16歳の頃、完成直後だった鈴鹿サーキット(1962年秋開業)入口にあった「あなたの愛車でサーキット走れます」の告知看板をみて自分のホンダ・CBを走らせた。そこで良いラップタイムを記録したのをきっかけに、ホンダのレース用車両CR93英語版に乗る機会を得る。このCRで当時の最速レベルである2'56"秒台を刻み、ホンダファクトリーの目に留まる存在になった。レース競技を主催するMFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)が設立されたばかりの頃でもあり、以後ホンダ・CR72やCR77を走らせるライダーとして起用される[1]

オートバイレーサーになると心に決めた18歳で上京、千葉で住み込み整備工として下積みしながら、「ホンダテクニカルスポーツ」の一員として、MFJジュニア250ccクラスに参戦。第3回MFJロードレース鈴鹿でホンダ・CB250(CB72)を駆り優勝する。1965年日本GPで併催されたジュニアクラスで乗ったCB72は吉村秀雄ヨシムラ創業者)がエンジンチューンを手掛けていたが、和田の駆るCBの速さを見た本田宗一郎がその速さに驚いたという逸話を残す[2]。鈴鹿開業当時から1970年代後半までは富士スピードウェイと鈴鹿の対立構図があり[3]、和田は富士で開催されるビッグレースにも出場したいと熱望していたが、「ホンダの人間は鈴鹿だけを走っとけ、みたいな感じがあった。会社(ホンダ)から許可が出なかった(和田談)」という状況があった[1]。しかし和田は速い人間が集まる中で走らなければ自分が速くなるわけがないというという考えを持っており、エンジンを担当していた吉村秀雄からも「和田出ろ」と背中を押されたこともあり、会社側の反対を押し切って富士のレースに出場する。これを機にホンダファクトリーから離れた[1]

1967年に片山義美の「神戸木の実レーシング」へ移籍、カワサキのワークスライダーとして契約する。1968年、カワサキ・A1Rで全日本250チャンピオンを獲得。以後、大排気量のF750クラスでは、ホンダ隅谷守男と幾多の激戦を繰り広げる。この隅谷とのバトルをしていた時期、転倒リタイヤか優勝かとはっきりしている和田のレースぶりがカワサキを象徴する「男らしさ」であり、転倒で首を骨折しても復活する和田の姿こそ、後にレースファンやメディアに定着することになる「男カワサキ」の由来ではないか、とチームグリーン監督の平井稔男が当時を回想している[4]

1973年、カワサキ・H2RでアメリカAMAデイトナ200に参戦。1977年にはヨーロッパへ遠征し、KR250で世界グランプリ250ccクラス最高4位を記録する。この頃の取材では自身のポリシーを、「他の人が出せたタイムは自分にも必ず出せる。コースに出たら0.1秒であっても必ず前に出したタイムを縮めなければ気が済まない。何ごとにかけても人をのむ気概でぶつかっていくのが私の信条です。」と述べている(1976年)[5]

1978年に第1回大会が開催された鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、ライバル勢が4ストローク1000ccのビッグマシンで参戦している中、清原明彦とのコンビで2ストロークGPマシンKR350で挑み、予選ではモンスターバイク勢を抑え5位に食い込むなど観衆を大いに盛り上げた[6]。1981年から1983年はモリワキのライダーとして参戦し、カワサキ・Zシリーズのエンジンをチューンして搭載する「モリワキ・モンスター」で参戦。

実業家としては、大阪府松原市を拠点にショップ「ミスターヒロ」の社長として経営。こだわりを詰め込んだオリジナルのライディンググローブをプロデュース・販売し、長年多くのユーザーから支持を受けていたが、2010年4月に閉店し公式ウェブサイトも閉鎖された。片山敬済(1977年350ccクラス世界王者)は、和田の生成り革によるグローブを大変気に入っており、これを元に手首側の長さなどにアレンジを加えながら世界グランプリで長く愛用した[7]

和田はプライベーターとして鈴鹿8時間耐久レースに1988年大会まで参戦。レーサーの第一線を退いた後も、鈴鹿レーシングスクール(SRS)2輪部門講師、MFJ役員、鈴鹿サンデーロードレースの競技委員を務めるなどオートバイ界への貢献を続ける。

レース戦歴

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全日本ロードレース選手権

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チーム マシン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1983年 モリワキレーシング モリワキ-カワサキ・KZ1000J TT-F1 SUZ
SUZ
SUZ
5
SUZ
13位 6

ロードレース世界選手権

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クラス チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1977年 250cc カワサキ KR250 VEN GER ITA ESP FRA YUG
Ret
NED
15
BEL
4
SWE FIN CZE GBR 24位 8

鈴鹿8時間耐久ロードレース

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チーム ペアライダー 車番 マシン 予選順位 決勝順位 周回数
1978 チームカワサキ 清原明彦 18 カワサキ・KR350 5位 28位 131
1979 清原明彦 10 カワサキ・ 10位 Ret 68
1981 月木レーシング 杉本五十洋 37 カワサキ・Z1000 16位 Ret 146
1982 モリワキ・レーシング ジョン・ペイス 15 カワサキ・Z1000 10位 13位 114
1983 八代俊二 33 モリワキ-カワサキ・Z1000J - - -
1984 杉本五十洋 40 カワサキ・GPZ750 36位 21位 172
1988 セントラルパーク・チームMr.hiro 杉本五十洋 81 ホンダ・VFR750 / RC30 60位 32位 179
  • 1982年は台風のため6時間に短縮された。
  • 1983年はエントリーしていたが、直前で欠場となった。

脚注

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  1. ^ a b c カワサキレーシングマシーン創世記 和田将宏 月刊ロードライダー 6月号 26-28頁 立風書房 1993年6月1日発行
  2. ^ ヨシムラヒストリー05 バイクブロス 2019年3月28日
  3. ^ 4輪レース界では、1976年に鈴鹿サーキットで富士グランチャンピオンレースと同規格のビッグ・レースが企画され、トップレーサーの多くも参戦予定だったが富士スピードウェイのオーガナイザーが「鈴鹿に出場したレーサーは以後富士GCへ出場させない」と反発した事例がある 出典・走る人生20年の軌跡 グランプリ・エクスプレス1991年ポルトガルGP号 12-13頁 1991年10月12日発行
  4. ^ 和田将宏の思い出 TeamGreen監督T.Hiraiのブログ 2011年6月18日
  5. ^ '76シーズンにかけるトップライダーたち・和田正宏選手 MFJライディング No.081 22-23頁 日本モーターサイクルスポーツ協会 1976年2月25日発行
  6. ^ SUZUKA 8Hour Data & Results 1988鈴鹿8時間耐久ロードレース公式プログラム 87頁 鈴鹿サーキットランド 1988年7月発行
  7. ^ 和田正宏:伝説のレーサー達 Ride?バイクチャンネルYoutube 2022年5月4日
タイトル
先代
矢野啓司
全日本選手権250cc チャンピオン
1968
次代
金谷秀夫
pFad - Phonifier reborn

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