コンテンツにスキップ

「清原明彦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 経歴: typo
10行目: 10行目:
しかし、[[オイルショック|第1次オイルショック]]の影響による二輪車売り上げの落ち込みが尾を引いたことで、KR750の開発にストップがかかるなどカワサキの技術部門は予算的な制約が増えレース参戦に積極的ではなくなり、同年の清原が参戦したのは全日本選手権の1戦だけとなり、希望していた[[AMAスーパーバイク選手権|アメリカAMA]]やヨーロッパWGPへの遠征もなくなった。この頃はレースに出たいという一心であり、社内の各方面に自ら陳情して回るも良い反応は少なく、結局量産車テストが主な任務となるなど辛い状況となった<ref>ミスターカワサキと呼ばれる男 清原明彦物語 RIDE [[モーターマガジン社]] 2008年11月15日発行</ref>。
しかし、[[オイルショック|第1次オイルショック]]の影響による二輪車売り上げの落ち込みが尾を引いたことで、KR750の開発にストップがかかるなどカワサキの技術部門は予算的な制約が増えレース参戦に積極的ではなくなり、同年の清原が参戦したのは全日本選手権の1戦だけとなり、希望していた[[AMAスーパーバイク選手権|アメリカAMA]]やヨーロッパWGPへの遠征もなくなった。この頃はレースに出たいという一心であり、社内の各方面に自ら陳情して回るも良い反応は少なく、結局量産車テストが主な任務となるなど辛い状況となった<ref>ミスターカワサキと呼ばれる男 清原明彦物語 RIDE [[モーターマガジン社]] 2008年11月15日発行</ref>。


1977年、[[カワサキ・KR (ロードレーサー)|KR250]]でロードレース世界選手権(WGP)へスポット参戦が実現する。[[和田将宏]]と交互にグランプリ数戦に参戦し、ヨーロッパの実戦におけるKR250の評価を会社側に報告するという任務であった。ドイツグランプリ250ccでは、初めて走る[[ホッケンハイムリンク]]だったが、後に世界王者となる[[フランコ・ウンチーニ]](イタリア)や[[クリスチャン・サロン]](フランス)、[[コーク・バリントン]](南アフリカ)ら強豪を抑え、KR250で[[ポールポジション]]を獲得した。決勝レースも制覇できるレベルであったが、雨が降ったことでウェット路面のレースが好きなサロンに次ぐ2位に留まった(3位はウンチーニ)。カワサキのレースチームは、清原にレース中の情報を出すためのピットサインボードを忘れたという単純なミスのため、清原は残り周回数がわからなくなっていた最終周で抜いて勝つつもりだった清原の思惑通りに出来なったのが原因であり、遠征から帰国後に「アホがおったら勝てるもんも勝てんわ」と発言した記事が雑誌に載ったため会社(カワサキ)からしばらくレース出場を自粛させられたという後日談がある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=sBOiD4qUhA4 片山敬済&清原明彦レジェンドトーク (11分03秒付近~)] Ride?バイクチャンネルYoutube 2019年5月15日</ref>。
1977年、[[カワサキ・KR (ロードレーサー)|KR250]]でロードレース世界選手権(WGP)へスポット参戦が実現する。[[和田将宏]]と交互にグランプリ数戦に参戦し、ヨーロッパの実戦におけるKR250の評価を会社側に報告するという任務であった。ドイツグランプリ250ccでは、初めて走る[[ホッケンハイムリンク]]だったが、後に世界王者となる[[フランコ・ウンチーニ]](イタリア)や[[クリスチャン・サロン]](フランス)、[[コーク・バリントン]](南アフリカ)ら強豪を抑え、KR250で[[ポールポジション]]を獲得した。決勝レースも制覇できるレベルであったが、雨が降ったことでウェット路面のレースが好きなサロンに最終ラップで抜かれ、2位に留まった(3位はウンチーニ)。カワサキのレースチームは、清原にレース中の情報を出すためのピットサインボードを忘れたという単純なミスのため、清原は残り周回数がわからなくなっていたのが最終周で抜かれる原因であり、遠征から帰国後に「アホがおったら勝てるもんも勝てんわ」と発言した記事が雑誌に載ったため会社(カワサキ)からしばらくレース出場を自粛させられたという後日談がある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=sBOiD4qUhA4 片山敬済&清原明彦レジェンドトーク (11分03秒付近~)] Ride?バイクチャンネルYoutube 2019年5月15日</ref>。


1982年にカワサキを退社<ref>[https://www.autoby.jp/_ct/17524161 カワサキZに魅せられた男たち 清原明彦] webオートバイ 2022年5月6日</ref>。兵庫県神戸市[[兵庫区]]の[[国道2号]]沿いに「プロショップ KIYO」(現・カワサキ プラザ神戸兵庫)を創業。時期を同じくして、カワサキは1982年シーズンでWGPへのワークス参戦を休止し、世界耐久選手権でのワークス活動も1983年を最後に縮小する方針に向かう。
1982年にカワサキを退社<ref>[https://www.autoby.jp/_ct/17524161 カワサキZに魅せられた男たち 清原明彦] webオートバイ 2022年5月6日</ref>。兵庫県神戸市[[兵庫区]]の[[国道2号]]沿いに「プロショップ KIYO」(現・カワサキ プラザ神戸兵庫)を創業。時期を同じくして、カワサキは1982年シーズンでWGPへのワークス参戦を休止し、世界耐久選手権でのワークス活動も1983年を最後に縮小する方針に向かう。

2024年10月19日 (土) 15:19時点における版

清原 明彦 (きよはら あきひこ、: Akihiko Kiyohara1946年2月26日 - ) は、兵庫県神戸市出身の元モーターサイクル・ロードレーサー川崎重工業オートバイテストライダー。「キヨさん[1]」や「ミスターカワサキ[2][3]」の愛称で知られる[注釈 1]

プロショップKIYO (現・カワサキ PLAZA神戸兵庫) 代表取締役社長[4]

経歴

1961年(昭和36年)に15歳で川崎航空機(後の川崎重工業)に入社。オートバイ製造の養成工となる。3年の養成期間後は量産工場へ配属されるのが既定路線だったが、自らテストライダーを志願し「テストライダーになれなかったらカワサキを辞める」と直訴し1964年に養成工出身のテストライダーとなった。オフロード車もテストし評価・開発に従事、モトクロスレースに出場し連勝するなど、テストライダー陣のチーフ格となっていった。清原が開発した車種には「A1 - A7」「H1 / H2 (マッハ)」「Z1 / Z2」をはじめ、後年まで名車と言われるものが多く存在する。

それまでも社員ライダーとしてモトクロスとロードレースに出場し、1967年鈴鹿6時間耐久レース優勝や、1975年鈴鹿200マイルレース優勝などの好成績を残していたが、1976年よりロードレースに参戦するカワサキのワークスライダーとして契約し再出発となる[5]

しかし、第1次オイルショックの影響による二輪車売り上げの落ち込みが尾を引いたことで、KR750の開発にストップがかかるなどカワサキの技術部門は予算的な制約が増えレース参戦に積極的ではなくなり、同年の清原が参戦したのは全日本選手権の1戦だけとなり、希望していたアメリカAMAやヨーロッパWGPへの遠征もなくなった。この頃はレースに出たいという一心であり、社内の各方面に自ら陳情して回るも良い反応は少なく、結局量産車テストが主な任務となるなど辛い状況となった[6]

1977年、KR250でロードレース世界選手権(WGP)へスポット参戦が実現する。和田将宏と交互にグランプリ数戦に参戦し、ヨーロッパの実戦におけるKR250の評価を会社側に報告するという任務であった。ドイツグランプリ250ccでは、初めて走るホッケンハイムリンクだったが、後に世界王者となるフランコ・ウンチーニ(イタリア)やクリスチャン・サロン(フランス)、コーク・バリントン(南アフリカ)ら強豪を抑え、KR250でポールポジションを獲得した。決勝レースも制覇できるレベルであったが、雨が降ったことでウェット路面のレースが好きなサロンに最終ラップで抜かれ、2位に留まった(3位はウンチーニ)。カワサキのレースチームは、清原にレース中の情報を出すためのピットサインボードを忘れたという単純なミスのため、清原は残り周回数がわからなくなっていたのが最終周で抜かれる原因であり、遠征から帰国後に「アホがおったら勝てるもんも勝てんわ」と発言した記事が雑誌に載ったため会社(カワサキ)からしばらくレース出場を自粛させられたという後日談がある[7]

1982年にカワサキを退社[8]。兵庫県神戸市兵庫区国道2号沿いに「プロショップ KIYO」(現・カワサキ プラザ神戸兵庫)を創業。時期を同じくして、カワサキは1982年シーズンでWGPへのワークス参戦を休止し、世界耐久選手権でのワークス活動も1983年を最後に縮小する方針に向かう。

1983年7月の鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、予選でカワサキ・フランスチームのジェラルド・コードレイが転倒し負傷、決勝への出場が不可能になったため、その代わりに急遽清原がジャック・コルヌーとコンビを組むことになった。このフランスチームは世界耐久選手権シリーズのタイトル争いをしていたが、清原はそのランキングの事情を聞かされておらず、加えて、非常に長身のコルヌーと小柄な清原のマシンセッティングをどう合わせるかなど難しい面もあった。迎えた決勝ではコルヌーが序盤からトップを走行するも、マシン(KZ1000J)に不具合が出てピットイン。交代した清原はS字コーナーで転倒を喫し、再スタートすることが出来ずそのままリタイヤとなった。ノーポイントとなったコルヌーは結果的に同年の世界タイトルを逃すことになり[注釈 2]、清原は「コルヌーに悪いことした。ランキングは知らなかったんや…」と述べ、苦い思いをすることとなった。ワークス参戦を休止したカワサキは1987年シーズンより全日本TT-F1クラスでの活動を徐々に活発化し始め、同年終盤のTBCビッグロードレースでは弟子的な存在である宗和孝宏が表彰台を獲得するなど、カワサキのレース活動に復活の動きがみられている中、1988年に42歳となった清原はレーサー引退を表明。引退レースとなった同年9月11日の全日本ロードレース選手権第10戦・鈴鹿のTT-F1クラスを17位で完走後、ZXR-7での記念走行が行われた。

人物

  • 乗用車はポルシェが好きで、所有もしている[9]
  • 長年の功績から「関西二輪界のレジェンド」と称され、見た目や話し方も「関西のその筋の人」のような毒舌家の一面を持つが[10]、いたって気さくな「おっさん」として話しやすい人柄で知られる。6歳後輩である片山敬済は、「キヨさんは大先輩だけど、いつも同期のように接してくれる。先輩後輩でもあり、戦友でもあるという信頼できる貴重なご縁」とその親しみやすさを述べている[11]
  • 後にカワサキワークス入りする宗和孝宏は、学校を中退後に清原のショップ「KIYO」でアルバイトをしていた。宗和は「恩人であり師匠」と公言している[12]
  • ミスター・カワサキの異名は次世代の若いライダーにも伝わっており、それまでヤマハのワークスライダーとして長く戦っていた中野真矢が2004年にカワサキワークスへの移籍を決めた時、「そのメーカーの歴史を作った方へのリスペクトが必要と考え、話を聞くべきだと思った」として最初に連絡をしたのが清原だった。中野は2009年に引退後、「ヤマハとホンダでも走らせていただいたが、僕のレースキャリアの頂点はカワサキ時代で、誇りに思っています。」とも述べている[2]

関連書籍

レース戦歴

全日本ロードレース選手権

チーム マシン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1982年 Team KIYO カワサキ・KR500 500cc SUZ
TSU
SUZ
SUG
SUZ
TSU
TSU
SUG
SUZ
C
NC 0
1983年 カワサキ・KR1000 TT-F1 SUZ
Ret
SUZ
2
SUZ
1
SUZ
5
2位 36
1988年 K.R.T カワサキ・ZXR-7 TT-F1 SUZ
SUZ
SUG
SUZ
17
SUG
TSU
NC 0

ロードレース世界選手権

1969年から1987年までのポイントシステム

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
クラス チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1977年 250cc カワサキ KR250 VEN GER
2
ITA
Ret
ESP
9
FRA
Ret
YUG NED BEL SWE FIN CZE GBR 17位 14

鈴鹿8時間耐久ロードレース

チーム ペアライダー 車番 マシン 予選順位 決勝順位 周回数
1978 チームカワサキ 和田将宏 18 カワサキ・KR350 5位 28位 131
1979 和田将宏 10 カワサキ・ 10位 Ret 68
1980 徳野政樹 12 カワサキ・Z1 10位 7位 193
1983 カワサキ・フランス スイスの旗 ジャック・コルヌー 1 カワサキ・KZ1000J 2位 Ret 73

脚注

注釈

  1. ^ ミスターカワサキの愛称で呼ばれたのは和田将宏も同様である。片山敬済の証言によると、「我々の世代だとミスターカワサキは和田さんで、キヨさんはキヨさんって呼んでたね」と述べており、80年代後半頃よりバイク雑誌等により清原も和田と並んでこの名で呼ばれるようになっていたと述懐している(Ride?バイクチャンネルYoutube「和田正宏:伝説のレーサー達」11分12秒付近~ 2022年5月4日)。
  2. ^ コルヌーは前年の世界耐久チャンピオンを獲得しており、2年連続タイトルに挑んでいた。

出典

  1. ^ Kawasaki Z1 プロショップキヨ代表・清原明彦氏 名車列伝 オートバイ 2019年2月18日
  2. ^ a b ミスターカワサキ伝説「清原明彦」 Lawrence E-Ride×Lifestyle+α モーターマガジン社 2016年2月25日
  3. ^ ミスターカワサキが語る「W1」開発秘話 Responce 2019年7月1日
  4. ^ Ninjaという名の重さ 今振り返る、歴史を背負って戦った日々 ライダースクラブ 2024年3月11日
  5. ^ 役員―清原明彦 MFJレジェンドライダーズクラブ 2018年7月5日
  6. ^ ミスターカワサキと呼ばれる男 清原明彦物語 RIDE モーターマガジン社 2008年11月15日発行
  7. ^ 片山敬済&清原明彦レジェンドトーク (11分03秒付近~) Ride?バイクチャンネルYoutube 2019年5月15日
  8. ^ カワサキZに魅せられた男たち 清原明彦 webオートバイ 2022年5月6日
  9. ^ 清原明彦さんのポルシェに乗った!! 昭和40年男 2013年11月18日
  10. ^ Vol.6取材・カワサキ編(2) RACERSブログ 2010年8月24日
  11. ^ Kawasaki 乗りのKIYOさんは世界でも有名です 片山敬済Facebook 2020年5月11日
  12. ^ このメンバーでご飯を食べたことは、初めてかも 宗和孝宏Instagram 2022年5月24日

外部リンク

pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy