佐藤洋平
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名前 | ||||||
カタカナ | サトウ ヨウヘイ | |||||
ラテン文字 | SATO Yohei | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1972年11月22日(51歳) | |||||
出身地 | 宮城県仙台市 | |||||
身長 | 187cm[1] | |||||
体重 | 80kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1988-1990 | 宮城県工業高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1991-1998 | 住友/鹿島アントラーズ | 91 | (0) | |||
1999-2003 | コンサドーレ札幌 | 135 | (0) | |||
2003-2008 | ジュビロ磐田 | 32 | (0) | |||
通算 | 258 | (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2008年6月30日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
佐藤 洋平(さとう ようへい、1972年11月22日 - )は、日本の元プロサッカー選手(1992年 - 2008年)。サッカーコーチ(2008年 - )。ポジションは、ゴールキーパー。宮城県仙台市出身。
来歴
[編集]選手時代
[編集]鹿島アントラーズ
[編集]鹿島アントラーズの前身である住友金属工業蹴球団時代から在籍していたが、Jリーグ開幕時には新加入の古川昌明にポジションを奪われ、ほとんど出場機会が与えられなかった。1994年に初めて試合出場するが、デビューから3試合で連続PK負けを喫した。
翌年の1995年に、古川の怪我もあり出場機会を得ると実力と成長をアピールしたものの、まだ併用されている状態であった。ジェフ市原戦では、主力選手の約半数を欠き、さらに退場者も出た中、佐藤の好セーブなどで0対0でのPK戦に持ち込み、味方のミスキックがあったにもかかわらず自らが2本のPKを止めて、4-2で勝利した。
1997年にはジョアン・カルロス監督によって正GKに起用される。リーグ第1ステージとナビスコカップの制覇に貢献するが、ジュビロ磐田とのチャンピオンシップでは第2戦で中山雅史にボールを奪われて失点し、チームは優勝を逃した。しかし、同年の天皇杯では優勝した。しかし、1998年は膝を痛めて離脱し、高桑大二朗に正GKの座を奪われた。
コンサドーレ札幌
[編集]1999年、J2に降格したコンサドーレ札幌をJ1に上げようという岡田武史新監督の誘いに応じ、出場機会を求めてレンタル移籍した。2000年にはJ2優勝及びJ1昇格に貢献。この年のJ2における札幌の失点は、1試合で0.55点という驚異的な数字であった。2001年には札幌に完全移籍し、J1残留の立役者となった。また、この年は日本代表に選出された。岡田は「(札幌が好成績を挙げられたのは)佐藤ら、ごく一部の選手の実力に頼ったもの」であると、テレビのインタビューで明言した。
J2に降格して迎えた2003年も札幌に残留し、正GKとチームキャプテンを務めた。
ジュビロ磐田
[編集]2003年、鹿島時代の恩師であるジョアン・カルロスが札幌の監督に就任したが、指導方針で対立し、若手の藤ヶ谷陽介に正GKを奪われた。そこに、同年シーズン途中にGK不足[2] となった磐田からのオファーを受け、レンタルでの移籍を決断した。コンビネーションの問題でリーグ戦は出場機会がなかったが、山本浩正の不安定なプレーが続いたため、天皇杯ではゴールマウスを守り、安定したプレーでジュビロ磐田としては初の天皇杯制覇に貢献。翌年には完全移籍し、正GKとして活躍した。
2005年に日本代表の守護神・川口能活の加入、自らの怪我などがあってベンチを暖めることが多くなったが、出場した試合では安定したプレーでチームを支えた。
2007年のシーズン前、自分のファンが製作したサイトに「今年をラストイヤーにする」とコメントし、クラブ側からの説得にもその意志は変わらず、11月29日に2007年シーズンをもって現役を引退する事が発表された。
指導者時代
[編集]引退発表後は磐田の他に古巣の鹿島と、出身地のクラブであるベガルタ仙台からコーチ就任オファーがあったが、「若年層育成を行いたい」との意志から、磐田から要請されたジュニアユースチームのGKコーチに就任した。しかし、八田直樹の負傷によるGK不足から、チームからの要請を受け、2008年2月21日から6月30日までの期間限定で選手に復帰[3]。試合に出場することはなかったものの、カップ戦ではベンチ入りをした。
2009年、再度のベガルタ仙台のオファーを受諾して、同クラブのGKコーチに就任。
2014年12月24日、2015年にJFAのU-15日本代表GKコーチに就任することを発表[4]。また、U-22日本代表GKコーチも兼任。
エピソード
[編集]- J1優勝、J2昇格及びJ1への昇格、J2への降格の全てを選手として経験している。
- 現役生活の最後の所属クラブで、指導者のスタートを切ったジュビロ磐田とは因縁があり、Jリーグ公式戦デビューは対・磐田戦である。また、1997年のチャンピオンシップでの失態(上述)の際の相手チームも磐田であった。さらに、佐藤本人によれば、「高校時に住友金属(→鹿島)とヤマハ発動機(→磐田)からオファーを受けた」とのこと。磐田加入直後のインタビューで、住友金属を選んだ理由について、「ヤマハの正ゴールキーパーは森下申一さんだったので、住友金属の方がチャンスがあると思った」と述べている。
- 「試合に勝っても大して評価されないが、失点したり試合に負けると真っ先に責められるというポジション」という事で、GKはあまり好きではなかったが、札幌時代にディド・ハーフナーの指導を数年間受け、ゴールキーパーの楽しさが徐々にわかってきたと話している。
所属クラブ
[編集]- 1988年 - 1990年 宮城県工業高等学校
- 1991年 - 1998年 住友金属工業蹴球団/鹿島アントラーズ
- 1999年 - 2003年9月 コンサドーレ札幌
- 2003年9月- 2008年6月 ジュビロ磐田
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | 住金 | 21 | JSL2部 | 15 | 0 | 0 | 0 | ||||
1992 | 鹿島 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1993 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1994 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | |||
1995 | 26 | 0 | - | 4 | 0 | 30 | 0 | ||||
1996 | 15 | 0 | 10 | 0 | 0 | 0 | 25 | 0 | |||
1997 | 21 | 28 | 0 | 6 | 0 | 5 | 0 | 39 | 0 | ||
1998 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | |||
1999 | 札幌 | 1 | J2 | 35 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 40 | 0 |
2000 | 37 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 42 | 0 | |||
2001 | J1 | 29 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 31 | 0 | ||
2002 | 27 | 0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 34 | 0 | |||
2003 | J2 | 7 | 0 | - | - | 7 | 0 | ||||
磐田 | 28 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 5 | 0 | |
2004 | 1 | 23 | 0 | 5 | 0 | 2 | 0 | 30 | 0 | ||
2005 | 21 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | ||
2006 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | |||
2007 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | |||
2008 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 164 | 0 | 32 | 0 | 20 | 0 | 216 | 0 | |
日本 | J2 | 79 | 0 | 4 | 0 | 6 | 0 | 89 | 0 | ||
日本 | JSL2部 | 15 | 0 | 0 | 0 | ||||||
総通算 | 258 | 0 | 36 | 0 | 26 | 0 | 320 | 0 |
その他の公式戦
- 1997年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2004年
- スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2004 | 磐田 | 1 | 5 | 0 |
2005 | 21 | 5 | 0 | |
通算 | AFC | 10 | 0 |
代表歴
[編集]- 2001年2月 日本代表候補トレーニングキャンプ参加
指導経歴
[編集]- 2008年 ジュビロ磐田ユース(U-15):ゴールキーパーコーチ
- 2009年 - 2014年 ベガルタ仙台:ゴールキーパーコーチ
- 2015年 U-15日本代表コーチ:ゴールキーパーコーチ
- 2015年 - 2016年 U-22日本代表コーチ:ゴールキーパーコーチ
- 2018年 - 鹿島アントラーズ:ゴールキーパーコーチ
参考文献
[編集]- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-102-2
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8134-5
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-802-6
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2005』、コナミメディアエンタテインメント、2005 ISBN 4-86155-805-0
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2006』、コナミ、2006 ISBN 4-86155-811-5
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2007』、コナミデジタルエンタテインメント、2007 ISBN 978-4-86155-839-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2009』、コナミデジタルエンタテインメント、2009 ISBN 978-4-86155-850-4
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2010』、コナミデジタルエンタテインメント、2010 ISBN 978-4-86155-852-8
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-101-4
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-103-0
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-801-8
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2005』、コナミメディアエンタテインメント、2005 ISBN 4-86155-806-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2006』、コナミ、2006 ISBN 4-86155-812-3
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2007』、コナミデジタルエンタテインメント、2007 ISBN 978-4-86155-840-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2008』、コナミデジタルエンタテインメント、2008 ISBN 978-4-86155-846-7
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2009』、コナミデジタルエンタテインメント、2009 ISBN 978-4-86155-851-1
脚注
[編集]- ^ a b 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2007』p126
- ^ 当時高原寿康の負傷に加え、磐田の正GKであったアルノ・ヴァンズワムがシーズン途中で退団。理由はコーチとの対立であるとされる。
- ^ 佐藤洋平コーチの現役復帰のお知らせ ジュビロ磐田オフィシャルサイト
- ^ 佐藤洋平GKコーチ JFA U-15日本代表GKコーチ就任のお知らせ ベガルタ仙台オフィシャルサイト (2014年12月24日 閲覧)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 佐藤洋平 - FootballDatabase.eu
- 佐藤洋平 - WorldFootball.net
- 佐藤洋平 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 佐藤洋平 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 佐藤洋平 - J.League Data Siteによる選手データ