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山下賢章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やました けんしょう
山下 賢章
生年月日 (1944-07-08) 1944年7月8日
没年月日 (2016-08-16) 2016年8月16日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県肝属郡串良町
職業 映画監督
主な作品
ゴジラvsスペースゴジラ
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山下 賢章やました けんしょう[1]1944年昭和19年〉[出典 1]7月8日[4][5] - 2016年平成28年〉8月16日[出典 2])は、日本の映画監督東宝所属。鹿児島県[3][1]肝属郡串良町[要出典]出身。長男は政治運動家の山下万葉

経歴

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早稲田大学第一文学部哲学科を卒業後[要出典]1969年東宝に入社[出典 3]岡本喜八を筆頭に師事[出典 1]。1975年、本多猪四郎が監督を務めた『メカゴジラの逆襲』でチーフ助監督に就任[出典 1]。同作品への参加には、岡本からの後押しもあったという[3]

1979年に映画『トラブルマン 笑うと殺すゾ』で監督デビュー[出典 4]東宝映画では監督を3本務めたらフリー契約をするという暗黙のルールがあったため、監督作を3本は撮りたいと考えていたが、邦画斜陽の時代では実現が難しく、その後も東宝社員のまま助監督時代が長く続いた[2]

2016年8月16日、急性心不全のため逝去。72歳没[6]。同年11月27日には、東宝スタジオで「山下賢章監督を送る会」が開催された[7]

人物

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映画業界を目指したきっかけは、学生時代に岡本喜八が監督を務めた映画『肉弾』(1968年)を観て感銘を受けたことであった[2]。助監督時代に岡本へ師事したのも本人のたっての希望であった[2]。東宝の富山省吾は、山下は岡本組の長男のような存在であったと述べている[8]

山下について、『ゴジラvsスペースゴジラ』に出演した橋爪淳は、俳優の自由に演じさせてくれたといい、話し合いでも自身の意見を押し付けてくることはなかったと証言している[9]。同作品に出演した小高恵美は、山下からは抽象的なニュアンスで伝えられたといい[10]、また山下を「すごくねばる監督」であったと述懐している[11]。同じく出演者の吉川十和子は、山下を落ち着いていて穏やかな監督という印象であったといい[12]、登場人物の心を大事にしており、心理的な描写が緻密であったと評している[13]。監督助手の島田充は、山下は温和な人物であったが、撮影ではエネルギッシュにのめり込んでいたと証言している[14]。撮影監督の岸本正広は、山下はあまり喋らないため誤解されることもあったが、頭の中ではいつも演出的に面白いことを考えていたと語っている[15]。音楽を担当した服部隆之も、山下から要望を出すことはなかったが、キャラクターを深掘りする要素を教えられ、作曲がやりやすかったと述べている[16]

作品

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公開年 作品名 製作(配給) 役職
1969年 9月27日 奇々怪々 俺は誰だ?![2] 東宝
渡辺プロダクション
(東宝)
監督助手
1970年 1月15日 クレージーの殴り込み清水港
6月13日 喜劇 負けてたまるか!
9月12日 ひらヒラ社員 夕日くん 東宝
(東宝)
11月28日 ひらヒラ社員夕日くん ガールハントの巻
1971年 7月3日 愛ふたたび
8月14日 激動の昭和史 沖縄決戦
1972年 2月26日 制服の胸のここには
1974年 5月15日 喜劇 だましの仁義 東宝映画
(東宝)
9月21日 青葉繁れる
11月2日 沖田総司
1975年 3月15日 吶喊 喜八プロ
日本アート・シアター・ギルド
(日本アート・シアター・ギルド)
メカゴジラの逆襲 東宝映像
(東宝)
チーフ助監督[2]
7月12日 東京湾炎上 東宝映画
東宝映像
(東宝)
監督助手
11月1日 陽のあたる坂道 東宝映画
(東宝)
チーフ助監督
1976年 1月17日 妻と女の間
10月2日 喜劇 百点満点
1977年 2月11日 青春の門 自立篇 監督助手
4月29日 青年の樹
10月29日 姿三四郎 チーフ助監督
1978年 10月7日 ダイナマイトどんどん 大映
東映
監督助手
11月23日 ブルークリスマス 東宝映画
(東宝)
1979年 4月28日 乱れからくり
8月4日 トラブルマン 笑うと殺すゾ 監督
12月1日 英霊たちの応援歌 最後の早慶戦 東京12チャンネル
(東宝)
別班監督
1980年 8月30日 地震列島[7] 東宝映画
(東宝)
監督助手
1981年 11月7日 駅 STATION[15] チーフ助監督
12月19日 近頃なぜかチャールストン 喜八プロ
ATG
(ATG)
監督助手
1983年 5月21日 細雪 東宝映画
(東宝)
1984年 7月7日 夏服のイヴ チーフ助監督
12月15日 ゴジラ 監督助手・B班監督[1]
1985年 11月9日 春の鐘 チーフ助監督
1986年 12月13日 恋する女たち 監督補
1987年 8月1日 19ナインティーン 東宝映画
ジャニーズ事務所
(東宝)
監督
1989年 4月15日 YAWARA! 東宝映画
ハミングバード
(東宝)
チーフ助監督
1991年 1月15日 大誘拐 RAINBOW KIDS 「大誘拐」製作委員会
(東宝)
監督補
1994年 2月5日 ラストソング フジテレビジョン
東宝映画
(東宝)
チーフ助監督
12月10日 ゴジラvsスペースゴジラ 東宝映画
(東宝)
監督[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f VSスペースゴジラコンプリーション 2021, pp. 70–71, 「山下賢章インタビュー[再録]」
  2. ^ a b c d e f g h 平成ゴジラ大全 2003, pp. 252–253, 「急之弐 『ゴジラVSスペースゴジラ』 監督・山下賢章」
  3. ^ a b c 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, p. 92, 「メカゴジラの逆襲 メイキング」
  4. ^ a b c ゴジラ大百科 1994, pp. 46–47, 「インタビュー 山下賢章」
  5. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「7月8日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、184頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  6. ^ a b “訃報 山下賢章さん72歳=映画監督”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2016年9月7日). オリジナルの2016年9月7日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/fRYFJ 2022年10月21日閲覧。 
  7. ^ a b c VSスペースゴジラコンプリーション 2021, p. 132, 「国連G対策センターCプロジェクト極秘レポート」
  8. ^ VSスペースゴジラコンプリーション 2021, pp. 76–77, 「富山省吾インタビュー」
  9. ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 150–152, 「インタビュー 橋爪淳」
  10. ^ VSスペースゴジラコンプリーション 2021, pp. 12–15, 「スペシャル対談 橋爪淳・小高恵美」
  11. ^ ゴジラ大百科 1994, pp. 48–49, 「インタビュー 小高恵美」
  12. ^ VSスペースゴジラコンプリーション 2021, pp. 16–17, 「キャストインタビュー 君島十和子」
  13. ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 153–155, 「インタビュー 吉川十和子」
  14. ^ VSスペースゴジラコンプリーション 2021, p. 19, 「STAFF MESSAGE 島田充」
  15. ^ a b VSスペースゴジラコンプリーション 2021, p. 24, 「STAFF MESSAGE 岸本正広」
  16. ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 146–149, 「インタビュー 服部隆之」

出典(リンク)

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参考文献

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外部リンク

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