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山野辺義清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山野辺 義清
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦2年5月3日1656年6月25日
死没 宝永元年8月25日1704年9月23日
改名 友之助→熊之介(幼名)→義方(初名)→義清
別名 右衛門、伊賀、若狭(通称
墓所 茨城県那珂市瓜連の常福寺
官位 従五位下、伊豆守、若狭
主君 徳川光圀綱條
常陸水戸藩家老
氏族 楯岡氏山野辺氏(ともに清和源氏最上氏庶流
父母 父:楯岡忠直、養父:山野辺義堅
兄弟 楯岡定直義清
正室:阿岩山野辺義忠の娘)
義逵
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山野辺 義清(やまのべ よしきよ)は、江戸時代前期から中期の水戸藩家老

生涯

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明暦2年(1656年)、熊本藩家老楯岡忠直の子として肥後熊本に生まれる。はとこにあたる水戸藩家老山野辺義堅の養嗣子となる。

寛文9年(1669年)、14歳で家督を相続、禄1万石を与えられ、家老に列した。天和3年(1683年)、従五位下に叙される。伊豆守を称し、のち若狭守と改め、また伊豆守に戻した。貞享4年(1687年)、東山天皇即位に当たり京に使する。藤井紋太夫と抗争して屈することなく、主君徳川光圀より忠勤を賞された。

宝永元年(1704年)に49歳で死去し、長男の義逵が跡を継いだ。

参考資料

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  • 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年








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