徳川斉位
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政元年6月15日(1818年7月17日) |
死没 | 天保8年5月7日(1837年6月9日) |
改名 | 郁之助、豊之助、斉位 |
戒名 | 崇雲院 |
官位 |
従三位左近衛権中将、民部卿、参議 贈権中納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 徳川氏(田安徳川家、一橋徳川家) |
父母 |
父:徳川斉匡、母:高月氏 養父:徳川斉礼 |
兄弟 | 剛之丞、匡時、謙三郎、斉位、慶壽、聰之助、郁之助、松平慶永、慶頼、慶臧、猶姫、愛姫 |
妻 | 永姫 (徳川斉位正室)(徳川家斉の娘) |
子 | 養子:慶昌 |
徳川 斉位(とくがわ なりくら)は、江戸時代後期の武士。御三卿・一橋家の5代当主[1]。妻は11代将軍徳川家斉の娘・永姫(誠順院)[2]。
生涯
[編集]文政元年(1818年)6月15日[1]、田安家当主・斉匡の第四子として生まれる[3][2]。母は高月氏[3]。幼名は郁之助[3]、豊之助[2]。
文政8年(1825年)2月6日、一橋家当主・斉礼の養子となり[3]、翌7日に豊之助と改名する[1]。同年3月27日、一橋邸に移る[3]。文政10年(1827年)6月25日に元服し、伯父にあたる将軍・徳川家斉から偏諱を受けて斉位と名乗り、従三位・左近衛権中将兼民部卿に叙される[1]。同年7月27日、神田橋に居を移した[1]。
文政13年/天保元年(1830年)6月14日に養父・斉礼が没したため、同年7月19日、一橋家の当主となる[3]。同6年(1835年)11月15日、将軍家斉の娘・永姫(徳川家慶の妹)と婚姻する[1]。同7年(1836年)2月29日、一橋邸に移る[1]。同年12月1日、参議に任ぜられた[3]。
天保8年(1837年)5月7日、死去[3]。20歳[2]。法号は崇雲院[3]。
天保14年(1843年)4月2日、権中納言が追贈された[1]。
嗣子がなかったため、義兄である家慶の第五子・慶昌が末期養子として跡を継いだ[1]。
家族
[編集]- 正室:永姫(文政2年1月14日(1819年2月8日)- 明治8年9月23日(1875年9月23日))