戸田氏房
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永元年(1704年) |
死没 | 宝暦9年10月23日(1759年12月12日) |
改名 | 豊五郎(幼名)、氏房 |
墓所 | 東京都文京区向丘の蓮光寺 |
官位 | 従五位下、淡路守、右近衛将監 |
藩 | 美濃大垣新田藩主(三河畑村藩主) |
氏族 | 戸田氏 |
父母 |
父:戸田氏定、母:於類 養父:戸田氏成 |
兄弟 | 氏長、氏房、定浩 |
妻 | 本多助芳の娘 |
子 | 氏之、養女:(戸田定浩の娘、稲葉正明室) |
戸田 氏房(とだ うじふさ)は、江戸時代中期の大名。美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第2代藩主。大垣藩戸田家分家2代。
生涯
[編集]宝永元年(1704年)、美濃大垣藩の第4代藩主・戸田氏定の五男として生まれる。母は安田藤九郎の娘・於類。享保4年(1719年)に大垣藩新田藩の初代藩主・氏成が死去したため、家督を継いだ。
三河国、美濃国両国内で1万石を領し、従五位下、右近衛将監に叙位・任官し、三河国渥美郡畑村に居館を営んだ。資性温雅寡言、体躯雄偉にして古将の風ありといい、享保10年(1725年)7月21日、江戸城内にて松本藩主・水野忠恆が長州藩支藩の長府藩世子・毛利師就に斬りかかったところ、師就は不意をつかれて負傷したものの、腰刀で忠恆の脇差を落とし、そこに通りかかった氏房が忠恆の腰刀を奪い、速やかに狼藉を鎮定したという。ちなみにこの事件は忠恆と師就は面識がなく、自らの不行跡が世に知れ渡って、所領を没収され、それが毛利師就に下賜されると聞いたことから、斬りつけたとあらぬ妄言を述べたことから、忠恆の妄想による乱心として改易、本人は叔父である水野忠穀の許に蟄居させられた。
その後、氏房は大番頭、奏者番、西丸若年寄を歴任する。宝暦9年(1759年)10月23日に死去した。享年56。跡を長男の氏之が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 本多助芳の娘
子女
- 戸田氏之(長男)
養子女