新国史
『新国史』(しんこくし)は、六国史最後の『日本三代実録』の後を受けて10世紀に編纂されていたとされる日本の国史。草稿のままで終わったとされている。一説には『続三代実録』(ぞくさんだいじつろく)と呼ばれたとも言われている。著者は藤原実頼・大江朝綱ら。
概要
[編集]宇多天皇・醍醐天皇2代の出来事を扱った正史編纂事業は、朱雀天皇の承平6年(936年)に撰国史所という機関が設けられて藤原恒佐・平伊望が別当に任じられ、大江朝綱らを補佐にあてた。だが、作業が芳しくなかったことから村上天皇の天暦8年(954年)に、時の最高実力者藤原実頼を総裁とし、大江朝綱を別当として、朱雀天皇時代の追加を命じるとともに作業の促進を図った。しかし、3年後に大江朝綱が死去して別当が大江維時に代わったころから、律令制の弛緩もあって朝廷内の正史編纂への意欲が薄れてきたらしく、安和2年(969年)を最後に活動の記録は見られなくなる。また、完成したとする記録も見られないことから、未完に終わったものと考えられている。
ただし、草稿は存在してある程度写本などの形で所有されていたらしく、一条天皇の時代の寛弘7年(1010年)頃に天皇や藤原道長が新国史の編纂再開を検討したものの、天皇崩御によって実現しなかったとされること(『権記』同年8月8日条・『御堂関白記』同8月29日条など)、藤原通憲(信西)作成の図書目録などによると40巻本と50巻本があることが分かる。後者が特に『続三代実録』と呼称されていることから、伴信友以来、宇多・醍醐の2代が書かれたのが40巻で、残りの10巻で朱雀天皇1代が追加されたために『続三代実録』と呼ばれたとする考え方が通説とされている。
平安時代には草稿は残されていたようであるが、後に完全に散逸し、現在では『中右記』などにその一部の引用が見られるのみである。また、『日本紀略』の執筆の際に、新国史の草稿が原典の一部として用いられたとも考えられている[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 細井浩志は『新国史』を基にしたと推定される『日本紀略』の記事のうち、今日では科学的に発生日を算出することが可能な日食などの天文現象の記事の有無を検証したところ、昌泰までは高い確率で合致しているにもかかわらず、延喜以後突然記載漏れが急増することを指摘している。ここから福井は、編纂の中断について次の2つの説を示している。(1)昌泰の変(901年、醍醐天皇が菅原道真を大宰府に事実上配流した事件。後に道真は怨霊となったとされた)の記述方針についてまとまらず、同事件以後の草稿が未定稿に終わった。(2)事実上廃位されながら長命を保った陽成上皇に対して、光孝天皇の実子とはいえ一旦は臣籍降下した後に皇族に復帰して皇位を継いだ宇多天皇(源定省)系統の正統性を主張するために新国史が企画されたが、同上皇の死去(天暦3年(949年))によって、積極的な編纂意図が失われた[1]。なお、宇多天皇と陽成上皇との対立と正史編纂との関連性の問題は遠藤慶太が『日本三代実録』編纂の動機として挙げている[2]。
出典
[編集]- ^ 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4
- ^ 遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年) ISBN 4-87644-131-6