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稲毛女房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

稲毛女房(いなげのにょうぼう)は、鎌倉時代女性。実名は不詳。武蔵国の豪族稲毛重成の妻となったことで、こう通称される。

生涯

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北条時政の娘として生まれた。異母姉兄に北条政子北条義時等がいる。

稲毛重成の妻となり、一男一女を産んだ。病に悩まされ、いよいよ危うくなると、その様子が建久6年6月28日1195年8月5日)、源頼朝と共に美濃国青波賀にいた夫の元に知らされた[1]。重成は頼朝から駿馬を賜わると妻の元へ馳せ下った[1]

建久6年7月4日(1195年8月10日)、武蔵国で亡くなった[2]。墓所は川崎市多摩区にある広福寺。同地の墓碑によると、法号は一室圓如大禅定尼(いっしつえんにょだいぜんじょうに)。

没後

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親族たちの動向

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夫の重成は悲しみのあまり出家した[2]。また北条家の面々については喪に服するため、姉の政子は比企能員邸に渡り[3]、父時政と兄義時は本拠地である伊豆国に下った[4]。この服喪は1か月ほど続いた[注釈 1]

追善のための架橋

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出家した夫の重成はその後、相模川近くに寺堂を建て、念仏を唱える日々を過ごしていた[7]。そこで、相模川渡船で多くの落命者がいることを見て、妻である女房の追善のため、源頼朝の許可を得て独力で橋を架けたという[8]。この橋の落成供養に臨んだ頼朝は落馬してのちに落命したといい、またこの橋の橋脚7本が、1923年大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって姿を現した[7]

系譜

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関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 時政と義時は同年8月13日(1195年9月18日)に鎌倉に帰参し[5]、政子は8月17日(1195年9月22日)に御所に帰参した[6]
  2. ^ 諸説あるが、歴史学者の坂井孝一は、母を伊東祐親の女であると推定している[9]

出典

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  1. ^ a b 『吾妻鏡』, 建久六年六月廿八日条.
  2. ^ a b 『吾妻鏡』, 建久六年七月四日条.
  3. ^ 『吾妻鏡』, 建久六年七月九日条.
  4. ^ 『吾妻鏡』, 建久六年七月十日条.
  5. ^ 『吾妻鏡』, 建久六年八月十三日条.
  6. ^ 『吾妻鏡』, 建久六年八月十七日条.
  7. ^ a b 武部健一 2015, pp. 81–82.
  8. ^ 武部健一 2015, p. 82.
  9. ^ 坂井孝一 2021, p. 50.
  10. ^ 『鎌倉北条氏人名辞典』, p. 83.

参考文献

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史料

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  • 『吾妻鏡』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1964年。 

書籍

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  • 武部健一『道路の日本史:古代駅路から高速道路へ』中央公論新社中公新書2321〉、2015年。ISBN 978-4-12-102321-6 
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏:義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書661〉、2021年。ISBN 978-4-14-088661-8 

辞典

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  • 『鎌倉北条氏人名辞典』北条氏研究会編、勉誠出版、2019年。ISBN 978-4-585-22255-2 








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