徳川 昌丸(とくがわ まさまる)は、江戸時代の御三卿・一橋徳川家の8代当主。官位は贈従三位左近衛権中将。 弘化3年(1846年)1月8日、すでに死去していた尾張藩主・徳川斉荘の次男として生まれる。弘化4年(1847年)5月7日に先代当主・徳川慶壽の末期養子となり、一橋家の家督を相続した。当時、一橋家の当主になるということは事実上、将軍家世子に次ぐ将軍候補になるということであった。 しかし就任からわずか3ヵ月後の8月20日、2歳で夭折した。法号は馨明院。嘉永元年(1848年)4月10日に従三位・左近衛権中将が追贈された。墓地は芝増上寺にある。 当然嗣子がなかったため、没後に幕命により水戸藩主・徳川斉昭の七男・慶喜が跡を継いだ。これにより曽祖父・徳川治済の血筋は、一橋家では絶えた。

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  • 徳川 昌丸(とくがわ まさまる)は、江戸時代の御三卿・一橋徳川家の8代当主。官位は贈従三位左近衛権中将。 弘化3年(1846年)1月8日、すでに死去していた尾張藩主・徳川斉荘の次男として生まれる。弘化4年(1847年)5月7日に先代当主・徳川慶壽の末期養子となり、一橋家の家督を相続した。当時、一橋家の当主になるということは事実上、将軍家世子に次ぐ将軍候補になるということであった。 しかし就任からわずか3ヵ月後の8月20日、2歳で夭折した。法号は馨明院。嘉永元年(1848年)4月10日に従三位・左近衛権中将が追贈された。墓地は芝増上寺にある。 当然嗣子がなかったため、没後に幕命により水戸藩主・徳川斉昭の七男・慶喜が跡を継いだ。これにより曽祖父・徳川治済の血筋は、一橋家では絶えた。 (ja)
  • 徳川 昌丸(とくがわ まさまる)は、江戸時代の御三卿・一橋徳川家の8代当主。官位は贈従三位左近衛権中将。 弘化3年(1846年)1月8日、すでに死去していた尾張藩主・徳川斉荘の次男として生まれる。弘化4年(1847年)5月7日に先代当主・徳川慶壽の末期養子となり、一橋家の家督を相続した。当時、一橋家の当主になるということは事実上、将軍家世子に次ぐ将軍候補になるということであった。 しかし就任からわずか3ヵ月後の8月20日、2歳で夭折した。法号は馨明院。嘉永元年(1848年)4月10日に従三位・左近衛権中将が追贈された。墓地は芝増上寺にある。 当然嗣子がなかったため、没後に幕命により水戸藩主・徳川斉昭の七男・慶喜が跡を継いだ。これにより曽祖父・徳川治済の血筋は、一橋家では絶えた。 (ja)
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