堀 親寚(ほり ちかしげ)は、江戸時代後期の外様大名信濃飯田藩第10代藩主。伺い譜代として、幕閣に連なり、老中にまで登りつめた。身体強壮、目から鼻に抜けるような傑物で、天保の改革を主導した水野忠邦の右腕として「堀の金壺」「堀の八方睨み」と称された。

 
堀親寚
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年8月5日1786年8月28日
死没 嘉永元年12月10日1849年1月4日
官位 従五位下従四位下侍従大和守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行若年寄老中
信濃飯田藩
氏族 堀氏
父母 父:堀親長、養父:堀親民
兄弟 親忠有馬氏恕親民親寚
土岐頼功遠藤胤富正室、
秋月種備正室(後堀直起正室)
蜂須賀重喜娘・成姫
親義(次男)、酒井忠顕正室、
楷(鏗、田村邦顕正室)、
三女(水野勝進正室)、米津政懿正室、遠藤胤城正室、米津政饒正室、
七女(堀親広正室)
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生涯

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第7代藩主堀親長の五男として、1786年に江戸で生まれる。生母は親長の側室であった。第8代藩主親忠(親長の長男)と第9代藩主親民(親長の四男)が相次いで早世したため、1796年に、11歳で家督を相続した。17歳の時、従五位下・大和守に叙任されている。飯田藩きっての名君と言われ、文化6年(1809年)に起きた藩政改革反対一揆も無事に収めた。幕府では、伺い譜代として奏者番寺社奉行若年寄老中などを歴任した。水野忠邦を補佐して天保の改革にあたり、天保14年(1843年)には7000石を加増された。しかし、弘化2年(1845年)の水野忠邦失脚に連座して老中職を御役御免となり、蟄居を命ぜられると同時に加増7000石、本地3000石、計1万石を減封され、1万7000石となっている。弘化3年(1846年)に次男(長男死去)の親義に家督を譲って隠居し、嘉永元年(1848年)に63歳で没した。

経歴

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系譜

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父母

正室

子女

参照文献

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  • 『堀家の歴史 飯田・村松・須坂・椎谷』堀家の歴史研究会、1967年
  • 村澤武夫『伊那文庫9 飯田城主堀家』伊那史学会、1977年

関連項目

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