丸光
歴史
編集創業と多店化・多角化の推進
編集福島県石城郡平町(現在のいわき市)出身の佐々木光男が、仙台駅前の仙台空襲の焼け跡に建てた平屋バラック建ての建物に1946年(昭和21年)6月1日に丸光合名会社として雑貨店を開いてMARUMITU DEPT. STORE[1]の文字を掲げて営業を開始したのが始まりである[2]。
1953年(昭和28年)10月に百貨店としての営業を開始し、同年12月からは東北初のミュージックサイレンの運用を開始した。増築工事中の1956年(昭和31年)5月5日に火災が発生して新館北側階段を通じて延焼して延べ床面積5,141m2のうち2,397m2が焼失する[3]など災難に見舞われながらも1957年(昭和32年)10月に増築工事を完成させるなど増床を進め、1965年(昭和40年)には売場面積11,317m2で地元の老舗百貨店藤崎の9,910m2や東京資本の老舗百貨店三越仙台店の8,928m2を上回る仙台最大の売場面積を誇る百貨店とし、売上高も42.3億円を上げて三越仙台店の41.5億円を上回って藤崎の43.4億円を少し下回る2位となるなど先行していた老舗百貨店2店に追い着いて3つ巴の激しい競争を繰り広げた。
その後も1972年(昭和47年)11月などに増床を行って競合する藤崎や三越の増床などに対抗した[4]。
こうした仙台店の拡張の一方で1955年(昭和30年)に宮城県石巻市に石巻店を開店させた[5]のを皮切りに多店化を進め、1964年(昭和39年)12月20日に岩手県釜石市に釜石店を開店[2]、1966年(昭和41年)6月10日に宮城県気仙沼市に気仙沼店[6][2]、1967年(昭和42年)12月14日に福島県郡山市に郡山店[2]、1968年(昭和43年)6月28日に青森県八戸市に八戸店[7]と相次いで出店し、青森県、岩手県、宮城県、福島県の東北4県に6店舗を構える百貨店チェーンに成長させた。
1957年(昭和32年)には丸光食品センターを設立、1958年(昭和33年)7月には東一番丁の“東”と丸光の“光”をとって「東光」に名称変更し、1963年(昭和38年)6月にはセルフサービス方式に切替えると共に社名をトーコー(後のトーコーチェーン)と改め[2]、総合スーパーの運営に乗り出した。また、丸光食品センター設立と同年の1957年(昭和32年)12月には不動産会社「丸光株式会社」を設立し、1958年(昭和33年)11月には第一ビル株式会社に商号変更して、オフィス・商業ビル「第一ビル[注 1]」を建設・運営した[8]など関連企業を設立するなど事業の多角化も並行して進められた。
大手資本の進出による競争激化
編集1963年(昭和38年)に長崎屋仙台店[4]を皮切りに当店の店舗と競合する全国展開する大手資本との競争が始まり、1969年(昭和44年)にイトーヨーカ堂郡山店[9]、1970年(昭和45年)11月6日に長崎屋八戸店[10]、1971年(昭和46年)10月7日にニチイ八戸ショッピングプラザ[11]、1975年(昭和50年)にジャスコ仙台店(後の仙台フォーラス)とダイエー仙台店[4]、西友ストアー郡山店(のちの西友郡山西武店)[9]、丸井郡山店[9]、ダイエー郡山店[12]などの出店が相次いで競争が激化した。
こうした競争環境の変化に対応するため、1978年(昭和53年)3月18日にニチイの支援を受けてカネ長武田百貨店、山田百貨店、イチムラ、小美屋と共に株式会社百貨店連合を設立して[13]同年4月に同社と経営管理に関する業務委託契約を締結して業務を委ね[14]、1980年(昭和55年)に郡山店を閉店して撤退した[15]。
1982年(昭和57年)3月に小美屋と合併して株式会社丸光小美屋を設立したため[16]、この時点で企業としての丸光の歴史に終止符を打つことになった。
そして、同年9月に株式会社百貨店連合が[14]武田山田百貨店や丸光小美屋と合併して[16]社名から丸光の名が消えることになった。
この経営統合の際に釜石店は東北ニチイに引継がれて総合スーパーへ業態変更して東北ニチイ釜石店として営業することになった[17]。
1985年(昭和60年)3月に百貨店連合から株式会社ダックシティに社名が変更され[14]、店名がダックシティ丸光となり、1990年(平成2年)のマイカルビブレ事業本部と業務提携に伴い、1991年(平成3年)10月に店名をビブレ(VIVRE)に変更したため店名を含む丸光として歴史に終止符を打つことになった。
以降、丸光の流れを汲む百貨店については下記を参照。
年表
編集丸光
編集- 1946年(昭和21年)6月1日 - 丸光合名会社が、仙台駅前の仙台空襲の焼け跡に建てた平屋バラック建ての雑貨店に、『MARUMITU DEPT.STORE』の文字を掲げて営業開始[2]。
- 1949年(昭和24年)12月 - 戦後の東北地方で最初の屋上広告を掲げた。156坪、2階建ての新店舗が完成。
- 1951年(昭和26年)5月 - 東北で初となる全館蛍光管店舗に改装。
- 1953年(昭和28年)10月 - 青葉通りに面して鉄筋コンクリート地下1階、地上3階建てのビルが完成し、デパートとしての営業を開始。
- 1953年 (昭和28年) 12月 - 当時の日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)から発売されていたミュージックサイレンを東北で初めて導入。曲目は、仙台出身の土井晩翠にちなみ「荒城の月」を10時、12時、15時、17時に吹鳴し、21時には青少年に帰宅を促す「この道」を演奏していた。
- 1955年(昭和30年) - 宮城県石巻市に石巻店を開店[5]
- 1956年(昭和31年)5月5日 - 増築中に火災に遭う[3]。
- 1957年(昭和32年) - 丸光食品センター、丸光株式会社(後の第一ビル株式会社)を設立[2]
- 1957年(昭和32年)10月 - 増築が完成し、4,000坪の新店舗で営業再開。
- 1963年(昭和38年)10月23日 - 新たな増改築が完成しオープン(藤崎の増改築オープンと同日)。
- 1964年(昭和39年)12月20日 - 岩手県釜石市に釜石店を開店[2]
- 1966年(昭和41年) 6月10日 - 宮城県気仙沼市に気仙沼店を開店[6][2]
- 1967年(昭和42年) 12月14日 - 福島県郡山市に郡山店を開店[2]
- 1968年(昭和43年)6月28日 - 青森県八戸市に八戸店を開店[7]
- 1972年(昭和47年)11月 - さらに新たな増床改築が完成。現在の形に近い建物となる。
百貨店連合設立以後
編集- 1978年(昭和53年)
- 1982年(昭和57年)9月 - 株式会社百貨店連合が武田山田百貨店や[14]丸光小美屋と合併[16]。
- 1985年(昭和60年)3月 - ダックシティ (DAC CITY) に社名変更[13]。
- 店名を『ダックシティ丸光』(DAC CITY 丸光)に変更[注 3]。
- 1987年 (昭和62年) 7月 - 1953年から屋上で演奏していたミュージックサイレンが突然故障し、34年の歴史に幕を下ろした。屋上から撤去され解体されたものの、「荒城の月」、「この道」の2つのサイレンの制御装置が残されることになった。(20世紀アーカイブ仙台所蔵)
- 1990年(平成2年) - ビブレ事業本部と業務提携。
- 1991年(平成3年)10月5日 - 店名を『仙台ビブレ』(仙台VIVRE)に変更。店名から“丸光”の二文字が消える。
- 1998年(平成10年) - 社名をダックビブレに変更。
- 2002年(平成14年)10月 - 店名を『さくら野百貨店』に変更。その後、一時休業。
- 2003年(平成15年) - 再オープン。
店舗
編集下記店舗についてはそれぞれのリンク先を参照。
- 八戸店 - さくら野百貨店#八戸店
- 仙台店 - エマルシェ#さくら野百貨店仙台店
- 気仙沼店 - ダックビブレ#気仙沼ビブレ
- 石巻店 - 丸光石巻店(1955年 - 1967年、初代)、丸光石巻店(2代目)及びダックシティ丸光石巻店(1967年 - 1996年)はダックビブレ#ダックシティ丸光石巻店、石巻ビブレ及びさくら野百貨店石巻店はさくら野百貨店#石巻店
釜石店
編集丸光釜石店 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 岩手県釜石市大町1-1-9[18] |
開業日 | 1964年(昭和39年)12月20日[2] |
閉業日 | 2002年(平成14年)5月31日[19] |
商業施設面積 | 4,190 m²[18] |
後身 | 東北ニチイ釜石店[17] |
最寄駅 | 釜石駅 |
1964年(昭和39年)12月20日に岩手県釜石市に開店した宮城県外初の百貨店の支店で[2]、従来からあった地場資本の百貨店及新と共に釜石製鉄所を中心に栄える鉄の街を代表する百貨店として営業した。
百貨店連合に丸光が合併された後、東北ニチイに引継がれて総合スーパーへ業態変更して東北ニチイ釜石店として営業した[17]が2002年(平成14年)5月31日に[19]閉店した[17]。
店舗後は取り壊されて空地となっていたが、2017年に釜石市民ホールが完成した[17]。
郡山店
編集丸光郡山店 | |
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朝日生命郡山センタービル(晩年はエリート42ビル) | |
店舗概要 | |
所在地 | 福島県郡山市駅前2丁目2-2[18] |
開業日 | 1967年(昭和42年)12月14日 |
閉業日 | 1980年(昭和55年)1月15日 |
延床面積 | 12,800 m²[20] |
後身 |
朝日生命郡山センタービル ↓ エリート42ビル[21][22] ↓ 建物解体 |
最寄駅 | 国鉄郡山駅西口 |
郡山商工会議所に設置された百貨店法による商業活動調整協議会で揉め続けたものの[23]、1967年(昭和42年)12月14日に市内初の都市型百貨店として福島県郡山市に開店した[2]。
1975年(昭和50年)に西友ストアー郡山店(後の西友郡山西武店・アティ郡山)[9]、丸井郡山店[9]、ダイエー郡山店(のちにトポス郡山店となり撤退)[12][注 4]など大手資本の店舗が進出して競争が激化。その影響で売上も、1975年(昭和50年)には50億円を記録したが、1978年(昭和53年)には30億円に落ち込んだこともあり[24]、1980年(昭和55年)1月15日に撤退[15][25]。
閉店後、建物は朝日生命が買収し、朝日生命郡山センタービルとなった[20]。 その後、ビルは朝日生命からエリート(不動産業)に譲渡され、「エリート42ビル」として居酒屋などが入居していたが、2017年(平成29年)2月に同年中に閉鎖して解体することが発表[21][22]。解体後、跡地はコインパーキングとなった。
主な関連会社
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ あれから50年 戦争と丸光(1992年2月) p.29
- ^ a b c d e f g h i j k l m 鈴木実『火の人 佐々木光男伝』丸光、1973年。
- ^ a b 仙台市消防本部. “仙台丸光百貨店の火災”. 火災 6巻4号 通巻24号 (日本火災学会) (1957).
- ^ a b c 宮城建人. “商都仙台400年”. 七十七ビジネス情報 2006年秋季号 (七十七ビジネス振興財団) (10-13).
- ^ a b “さくら野石巻店が閉店”. 河北新報 (河北新報社). (2008年4月28日)
- ^ a b “気仙沼はまるで丸光デー どっと一万五千人”. 三陸新報 (三陸新報社). (1966年6月11日)
- ^ a b “まるでお祭りさわぎ 「丸光」「緑屋」開店 どっと五万人の客 八戸駅前まで人の波続く”. デーリー東北 (デーリー東北). (1968年6月29日)
- ^ 会社案内(第一ビル株式会社)
- ^ a b c d e 松村公明. “郡山市中心商店街における店舗の業種構成とその変容”. 地域調査報告 第11号 (筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ) (1989-3).
- ^ “押すな押すなの大盛況「長崎屋」八戸店オープン 買い物客が七万人”. デーリー東北 (デーリー東北). (1970年11月6日)
- ^ “商店街のワクを広げる 八戸ショッピングプラザめでたくオープン 午前中で二万の人出”. デーリー東北 (デーリー東北). (1971年10月8日)
- ^ a b “大店法緩和で「構図」変化共存共栄から“主戦場”郊外に”. 読売新聞 (読売新聞社). (2005年6月17日)
- ^ a b c d e 流通会社年鑑 1990年版, 日本経済新聞社, (1990-11-24), pp. 46-47
- ^ a b c d e f ダックビブレ 第24期有価証券報告書 (Report). ダックビブレ. 2002.
- ^ a b 立松潔 (2001). 科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 地方都市における中心市街地の活性化に関する研究 (Report). 立松潔.
- ^ a b c 『川崎市史 通史編 4 下 現代 産業.経済』 川崎市、1997年。
- ^ a b c d e 『平成18年度マスターセンター補助事業 岩手県内13市(14地区)の中心市街地活性化に関する調査研究報告書』(レポート)、社団法人中小企業診断協会岩手県支部、2007年1月。
- ^ a b c 日本商業年鑑 1972年版, 商業界, (1972), pp. 499
- ^ a b “マイカル釜石店5月末で閉店と決まる 岩手県釜石市”. タイハン特報 平成14年5月6日号 (大量販売新聞社). (2002年5月6日)
- ^ a b 『丸光郡山店 朝日生命が買収』福島民報(福島民報社) 1980年1月9日、朝刊15面。
- ^ a b “年内に解体へ 駅前旧丸光百貨店郡山店ビル”. 福島民報 (福島民報). (2017年2月4日)
- ^ a b “郡山・エリート42ビル、年内解体へ 入居店舗と契約終了次第”. 福島民友新聞 (福島民友新聞社). (2017年2月5日)
- ^ 『郡山経済百年史』郡山商工会議所、1975年11月。
- ^ 『丸光郡山店が撤退 来年1月いっぱいで』福島民報(福島民報社) 1979年11月19日、朝刊15面。
- ^ 『丸光郡山店が閉店 さよならセールにドッと客』福島民報(福島民報社) 1980年1月16日、朝刊2面。