垣内己山
垣内 己山(かきうち きざん)は江戸時代後期の医師、漢詩人。紀伊国湯浅村古碧吟社盟主。
『間窓随筆』口絵 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天明3年(1783年) |
死没 | 天保8年6月11日(1837年7月13日) |
別名 | 成章(諱)、君豹(字)、全庵(通称)[1] |
墓所 | 栖原施無畏寺 |
氏族 | 藤原姓菊池氏垣内全庵家 |
父母 | 垣内松渓、町 |
妻 | 栗山氏 |
子 | 垣内白峰、熊皐、古田咏処 |
生涯
編集天明3年(1783年)紀伊国有田郡栖原村に[2]医師垣内亨斎の長男として生まれた[3]。幼くして紀州藩督学伊藤海嶠に経史を学んだ[1]。京都に出て和田東郭・賀川子玄に医術を学び[4]、特に産科に長じた[1]。
帰郷後、家業を継ぐ傍ら詩文に興じた[1]。当時の南紀文壇が古学的注釈学に終止する中、一人南宋范成大・楊万里を模範とした清新派漢詩に打ち込んだ[1]。菊池渓琴と湯浅村・栖原村の同人を集めて古碧吟社を結成し、盟主に就任した[1]。野呂松盧を師とし[2]、当初月3,4回同人宅の持ち回りで詩会を開催したが、各家庭に迷惑がかかったため[5]、湯浅村島之内旅館広久を本拠に定め、古碧楼と号した[6]。
和歌山で盛唐詩を模範とした原田霞裳とも親交を結び、「南北の両雄」と並び称された[1]。霞裳の死後、その遺稿を整理し、天保4年(1833年)8月千鐘房から『漱芳園遺稿』を出版した[7]。
晩年銚子に移った[2]。天保8年(1837年)6月11日疫病により55歳で死去し[1]、施無畏寺に葬られた[3]。文久元年(1861年)6月石田冷雲撰書による墓碑が建てられた[3]。
著書
編集親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 菊池 1918, p. 25.
- ^ a b c 貴志 1934, p. 5.
- ^ a b c d e f g h i 湯浅町 1967, p. 959.
- ^ 林 1886.
- ^ 松下 1960, p. 85.
- ^ 湯浅町 1967, pp. 890–891.
- ^ 『漱芳園遺稿・楓邨詩稿』 - 国文学研究資料館
- ^ 『間窓随筆』 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- ^ 『間窓随筆』 - 千葉県立図書館菜の花ライブラリー
- ^ 医談雑記 - 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 己山遺稿 - 日本古典籍総合目録データベース
- ^ 梧窓随筆 - 日本古典籍総合目録データベース
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 24ウ.
- ^ 貴志 1934, p. 32.