寂照

平安時代中期の僧・文人。図書頭・三河守、従五位下、蔵人、徳明博士。出家。山村氏の祖

寂照(じゃくしょう、応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の入宋文人参議大江斉光の子。俗名は大江定基(おおえ の さだもと)[1][2]寂昭・入空[3]・三河入道・三河聖・円通大師とも称される[1]

じゃくしょう
寂照
応和2年頃? - 景祐元年
962年頃? - 1034年
大江定基
円通大師
尊称 三河入道・三河聖
没地 北宋 両浙路杭州 清涼山
(現:中華人民共和国の旗 中華人民共和国 浙江省
宗派 天台宗
寺院 延暦寺、呉門寺
寂心源信
弟子 念救
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経歴

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文章和歌に秀で[4]図書頭三河守を歴任、従五位下に至る。発心前は往生を願いつつも、狩猟をこととしていた[4]

三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性[5]が亡くなったことから[6]寛和2年(986年)6月[7]、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し[4]叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川源信に天台教学を、仁海密教を学んだ。

 
寂照供養塔(豊川市西明寺)

永祚元(989年)年3月7日、朝廷に入唐の勅許を求め[8]長保4年(1002年)6月18日、勅許を得ずに入のため旅立った[9][10]。但し、成尋が寂照は勅許を得ていたとしており、出発後に勅許を得たとみられる[11]。また出発前に、母の為に宝積寺で静照を講師として法華八講を修した。この時、500人以上の出家者が四面、垣をなした[4]。また、宝積寺の縁起によれば、同寺は、寂照が中興したという[12]

長保5年(1003年咸平6年)8月25日、寂照ら8人は肥前国より渡海し[13]、9月12日に明州へ着いた[14][11]。宋では蘇州の僧録司に任じられ、景徳元年(1004年)には、皇帝真宗に、日本の国号の刻まれた無量寿仏像を進上し、かわりに紫衣と円通大師の号を賜った[2][15]。また、天台山知礼から源信の天台宗疑問27条への回答とその解釈をえた[2]。また、知礼に『大乗止観法門』や『法等三昧行法』などの経典をもたらした[16]。日本へ帰国しようとしたが、三司使の丁謂(ていい)の要請により、蘇州呉門寺にとどまった[2]

とはいえ、日本とは手紙のやり取りがあり[17]長和2年(1013年)から4年(1015年)には弟子の念救が帰朝し[18]、寂照・元燈・念救・覚因・明蓮ら5人の度牒の発行を求めた[19]。また念救は延暦寺に、天台大師智顗の影像・智顗の袈裟如意舎利壺をもたらした[20]。一方で、藤原道長から多数の布施を受けたほか、経論・諸宗の章疏・モクゲンジの念珠を送るように求められ、その購入資金・金100両を送られた[21]

その後寂照は長元7年(1034年・景祐元年)に、日本に帰国する事がないまま杭州清涼山で没した[4][1]豊川市西明寺に供養塔がある[22]

子に香基がいたとされる。また、『寛永諸家系図伝』によれば、定基の後裔山村良道近江国山村郷に住み山村氏を称した[23]

官暦

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弟子

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念救(ねんきゅう)
長和元年(1012年)に周文裔の船で帰朝し、4年(1015年)に周文裔の船で再度渡宋したとみられる[26]。長和2年(1013年)10月には父母を訪ねるため土佐国に下向している[27]

逸話

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  • 定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなった際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに、女の亡骸を抱いて臥していた。数日後、定基が女の口を吸うと、ひどい死臭がした。さすが定基も耐えられず、女に対して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬した。その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」と、発心を起こしたという[28]
  • 出家した寂照が、都で乞食をしていたところ、離縁した妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ」と辱めを受けたが、逆に寂照は「このにより必ず仏心を得られるであろう」と手をすりあわせて喜んだという[28][29]
  • 宋史』「日本国伝」によれば、中国語には明るくないが、漢字は分かり、繕写は綺麗であり、凡そ筆談していたという。
  • 宋には、斎食を受けるとき、飛鉢の法により鉢を飛ばしてそれを受ける僧がいた。寂照はこれができないのを大恥と思い、本朝の神明・仏法に祈った。すると、寂照の鉢は堂内を三回めぐって、斎食を受け取ったため、異国の人は悉く感涙した[4]
  • 定基が三河守の時、ある女が定基に鏡を売りに来た。定基が鏡を箱から取り出した時、箱の中の紙切れに「けふまでと みるに涙の ますかゞみ なれぬるかげを 人にかたるな」という歌が書いてあった。定基は道心を発して、女に米十石を贈り、鏡を返した[30]。この話をもとに、冷泉為恭は『鏡売図』を描いている[31]

登場作品

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伝記

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脚注

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  1. ^ a b c 寂照』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 元亨釈書
  3. ^ 『日本紀略』永祚元年3月3日
  4. ^ a b c d e f 『続本朝往生伝』
  5. ^ から連れて行った女性(『今昔物語集』)、赤坂宿遊女力寿(『源平盛衰記』七、『三国伝記』十一)、の2つの説がある。『道済集』に、参川入道(寂照)が任地に連れてきた女性が亡くなった後に、都の姑の所に行き、再び任地に戻った際に詠んだ和歌が記されていることから、京から連れて行った女性の説が正しいと考えられている。(竹鼻績『今鏡(下)』講談社学術文庫、1984年)
  6. ^ 『続本朝往生伝』、『元亨釈書』
  7. ^ a b c 『尊卑分脈』
  8. ^ 『日本紀略』
  9. ^ 小記目録』
  10. ^ 榎本(2010) p. 111
  11. ^ a b 榎本(2010) p. 101
  12. ^ 宝積寺』 - コトバンク
  13. ^ 扶桑略記』、『宋史』「日本国伝」
    小右記』長和2年9月24日:”入唐僧念救、来たりて、終日、唐の事を談説す。「歴唐<宋と号す。>、十一年」てへり。”
  14. ^ 皇代暦
  15. ^ 『宋史』「日本国伝」
  16. ^ 榎本(2010) pp. 101-102
  17. ^ 御堂関白記』寛弘2年12月25日、長和元年9月21日、『権記』寛弘5年12月5日、『日本紀略』長元5年12月23日
  18. ^ 『御堂関白記』長和2年9月14日、4年7月15日など
  19. ^ 『日本紀略』長和4年5月7日。榎本(2010) p.122
  20. ^ 『御堂関白記』長和2年9月24日。『小右記』長和4年7月21日
  21. ^ 『御堂関白記』長和4年7月15日
  22. ^ 西明寺
  23. ^ 寛政重修諸家譜
  24. ^ a b 『小右記』天元5年正月10日、5月8日
  25. ^ 『続本朝往生伝』、『元亨釈書』、『日本紀略』長保4年3月15日、『扶桑略記』長保5年秋時、『尊卑分脈』
  26. ^ 森公章平安中・後期の対外関係と対外政策―「遣唐使」以後を考える―」, 『白山史学』巻54, 2018, p.36
  27. ^ 『小右記』長和2年10月16日
  28. ^ a b 『今昔物語集』19巻2話
  29. ^ 今鏡』第9 348段
  30. ^ 今昔物語集』24巻48話
  31. ^ 文化遺産オンライン
  32. ^ 国指定文化財等データベース
  33. ^ 千葉市美術館

参考文献

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関連項目

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