IWGPは、かつて新日本プロレスが開催していた「IWGPリーグ戦」の名称及び同団体が管理、認定しているチャンピオンベルトの名称。正式名称はインターナショナル・レスリング・グランプリInternational Wrestling Grand Prix、国際レスリング大賞)。

概要

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IWGPはプロレス界における世界最強の男を決めるという考えの下にアントニオ猪木が提唱したものである。各地域や各々の団体にチャンピオンベルトがある事で真のチャンピオンを決めるべき姿を確立する為の目的で、当初の計画では日本で開幕戦を行い、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦して決勝をニューヨークで行う予定だったが計画が壮大すぎたことに加え、「プロレス界における世界最強の男を決める」と言うプランから、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、紆余曲折の末1983年5月6日に蔵前国技館で第1回「IWGPリーグ戦」を開催。第1回「IWGPリーグ戦」決勝のハルク・ホーガン対猪木戦におけるホーガンのアックスボンバーによるアントニオ猪木の失神KOシーンが有名。第2回「IWGPリーグ戦」でも両者は決勝で戦ったが長州力の乱入によるリングアウトで猪木が勝利。

IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー級王座が創立されて、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日に第5回「IWGPリーグ戦」を制した猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降はIWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。

IWGP構想

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新日本プロレスの旗揚げ当時は、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWA世界ヘビー級王者も招聘することはできず、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本にとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日プロは崩壊するまで、NWA加盟団体であった。

NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。

閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、NWA内では「反主流派」と目されていたWWFビンス・マクマホンNWAハリウッド・レスリングのマイク・ラベール(ロサンゼルスのプロモーター)であった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案。こうした経緯もあって新日本は1970年代後半にNWA加盟が認められた[1]。しかし、NWAでは実務的な話しかされず、さらにNWA世界ヘビー級王者を招聘してタイトルマッチができるのは既存のプロモーター(つまり全日本)だけという条件も付けられていた。

何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGP構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た[2]

その後、WWFの全米制圧によりNWAの権威が失墜し、現在は逆に新日本の興行ではIWGPの方がNWAよりも権威ある王座となっており、IWGPのタイトルマッチの前座でNWAのタイトルマッチが組まれるという逆転現象が起きている。

IWGPルール

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  • 試合時間は60分1本勝負。
  • 試合の決着はフォール、ギブアップ、KO、リングアウト、レフェリーストップ、ドクターストップ、反則、ノーコンテストで決まる。いずれの場合も挑戦者が勝利した場合は王座が移動する。
  • 時間切れは引き分け。ただし、両者リングアウトは適用せず、試合時間内であれば何度でも再試合とする。
  • 王座保持者は原則としてタイトル獲得後6ヶ月以内に防衛戦を行わなければならない。
  • いずれも対戦者同士の合意があればルールを変更することができる。

王座一覧

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IWGP王座
NEVER王座
STRONG王座
NJPW WORLD王座
KOPW王座
非認定王座

IWGP実行委員会

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現在
過去

チャンピオンベルトについて

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1997年、橋本真也IWGPヘビー級王座を保持の際にチャンピオンベルトが2代目になる(初代IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトは創設者のアントニオ猪木に寄贈)、その後、IWGPジュニアヘビー級王座IWGPタッグ王座のチャンピオンベルトが2代目になり、IWGPジュニアタッグ王座が創設され、チャンピオンベルトの巻く部分だけ統一デザインになる。

2005年10月8日、IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトは3代目となるが保持していたブロック・レスナーが防衛戦を行わないままアメリカに持ち帰ってしまったため、しばらくは2代目IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトを代用していた。

2007年6月29日、両国国技館で開催されたIGF旗揚げ戦でレスナーがカート・アングルと非公式IWGPヘビー級選手権試合を行い、カートが3代目IWGPヘビー級王座を獲得。

2008年2月17日、新日本プロレス両国国技館大会でカートが正式王者の中邑真輔と「IWGPヘビー級選手権試合 ベルト統一戦」が行われ、中邑が勝利して4代目IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトが誕生(2代目IWGPヘビー級王座は、そのチャンピオンベルトを初めて保持した橋本の家族に寄贈された)。その後、2代目IWGPジュニアヘビー級王座、2代目IWGPタッグ王座、初代IWGPジュニアタッグ王座のチャンピオンベルトも新調された。

その他

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脚注

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  1. ^ ただし、当初はアントニオ猪木が加盟者として加盟を申請したが、NWAからは認められず、坂口征二新間寿が共同申請という形で加盟が認められている。
  2. ^ 新間寿『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)80P
  3. ^ 2021年、飯伏幸太が4大IWGP王座を獲得している。


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