コンテンツにスキップ

阿史那斛瑟羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。トムル (会話 | 投稿記録) による 2014年5月15日 (木) 06:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: ''''阿史那 斛瑟羅'''(あしな こくしつら、ピンイン:Āshǐnà húsèluó、生没年不詳)は、西突厥可汗。阿史...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

阿史那 斛瑟羅(あしな こくしつら、ピンイン:Āshǐnà húsèluó、生没年不詳)は、西突厥可汗阿史那歩真の子。の右玉鈐衛将軍兼濛池都護、継往絶可汗であり、武周の左衛大将軍、竭忠事主可汗、濛池都護、平西軍大総管でもある。

生涯

乾封年間(666年 - 668年)に阿史那歩真が死ぬと、子の斛瑟羅が後を継いだ。

斛瑟羅は初め歩利設(ボリ・シャド Bori šad)という官職に在った。時に西突厥では数年の間君主がおらず、部落の多くが散失していた。

垂拱685年 - 688年)の初め、より右玉鈐衛将軍兼濛池都護[1]を授かり、継往絶可汗を襲名し、五弩失畢部落を統領させた。

武周天授元年(690年)、斛瑟羅は左衛大将軍を拝命し、竭忠事主可汗[2]に改封され、濛池都護を賜った。

斛瑟羅は以前より、刑罰を適用するに当たって厳格・冷酷であったため、民衆は彼を恐れていた。一方、突騎施(テュルギシュ)の烏質勒は支配下の諸部落をいたわったため、遠近の諸国は彼に帰服していった。

聖暦二年(699年)、周朝は斛瑟羅を左衛大将軍兼平西軍大総管とし、自国の人々を鎮撫させようとした。しかし、斛瑟羅の部落が烏質勒の勢力に飲み込まれ、弱小となったため、斛瑟羅はあえて本国に帰ろうとせず、その部衆6,7万人とともに中国内地に移り住み、本国の領地はすべて烏質勒に併合されてしまった。

斛瑟羅はそのまま長安で亡くなり、子の懐道(カイドゥ)が後を継ぎ、右武衛将軍となった。

脚注

  1. ^ 松田寿男はこの「濛池都護」という官名に注意し、「これはもともと継往絶可汗の兼領で、突騎施に没した弩失畢五姓の首領を意味する。十姓のうちの半数だけを統制するはずのこの可汗が、ここでは十姓可汗を号しているのである。このことは、唐の冊立した十姓可汗が、あくまでも突騎施に対抗する目的に終始した、いわば唐朝が立てた対抗馬にほかならないことを、語っているではないか」といい、「ところが、この最初の対抗馬はみごとに失敗したらしく、これに代わって、阿史那献の冊立となった次第である」としている。≪松田寿男「碎葉と焉耆」≫
  2. ^ 「忠義を尽くして主君に仕える可汗」の意。

参考資料

  • 旧唐書』列伝第一百四十四下 突厥下
  • 新唐書』列伝第一百四十下 突厥下
  • 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社)
先代
阿史那歩真
継往絶可汗・濛池都護
第2代:? - ?年
次代
阿史那懐道
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy