阿史那氏
阿史那氏(あしなし)は、突厥の君主(可汗)を輩出した中核氏族。
阿史那氏は突厥の一氏族であり、モンゴル高原西部、アルタイ山脈のあたりに勢力を有した遊牧民であった。6世紀頃突厥の内部で台頭し、土門の称号を称したという。阿史那氏初代 伊利可汗は北周など中国王朝との通商関係を通じてその勢力基盤を築くとともに柔然に従い、ジュンガリアのチュルク族を討ち、これを併合した。伊利可汗は柔然に通婚を求めたが、格下と見下す柔然の拒否を受けて、後に柔然に敵対し、これを討った。その結果、阿史那氏は興安嶺からカスピ海、さらにはカフカースに至る広域な版図を築き、匈奴を凌ぐほどの大規模な遊牧国家を建国した。但し、その権力構造は必ずしも堅固ではなく、各地に君主をおいて分権的支配構造を確立したという。
突厥は大可汗を中心に4人の可汗により分立し、それぞれが征服事業を展開することにより突厥の版図を拡げた。しかし、中央集権的な権力構造の確立と権力の承継体制を構築せず、権力分立体制を敷いたことが結果として、突厥内部の内紛となり、583年、沙鉢略可汗と可汗の位を争い敗北した木杵可汗の子が、西面可汗のタルドゥに身を寄せ、沙鉢略可汗とタルドゥの対立が表面化、突厥は完全東西に分裂した。
その結果、阿史那氏は勢力を衰退させ、隋の属国となったり、従来の従属氏族が小国家を形成するなどの分裂を招いた。一時的に勢力を回復させ強盛を誇ったものの、8世紀中ごろに滅亡した。
なお、10世紀にペルシア語で書かれたの地理書『世界境域誌』(Ḥudūd al-'Ālam)によると、ハザールの可汗家は「アンサーの子孫に属す( از فرزندان انسا است az farzandān-i Ansā' ast)」と書かれており、この「アンサー」とは「阿史那」のことではないかと考えられている。
阿史那氏系譜
伊利可汗(初代)-乙息記可汗(子、2代)-木杵可汗(乙息記次弟、3代)-佗鉢可汗(乙息記三弟、4代)-沙鉢略可汗(乙息記長男、5代)-莫何可汗(乙息記次男、6代)-都藍可汗-達頭可汗(伊利甥、8代)-始畢可汗(莫何嫡孫、9代)-処羅可汗(始畢次弟、10代)-頡利可汗(始畢三弟、11代)------骨咄禄可汗-黙啜可汗(骨咄禄弟)-眦伽可汗(骨咄禄長男)-伊燃可汗(骨咄禄長男)-登利可汗(骨咄禄次男)
関連項目
参考文献
- 江上波夫『騎馬民族国家』中央公論社、1967年。