ゲーリュオーン
ゲーリュオーン(古希: Γηρυών, Gēryōn)は、ギリシア神話に登場する怪物である。クリューサーオールとカリロエーの子で[1][2]、エキドナと兄弟[3]。
ゲーリュオーンはアイスキュロスおよびラテン語による表記で、叙事詩中ではゲーリュオネウス(Γηρυονεύς, Gēryoneus)、イオーニア・アッティカ散文作品やアリストパネース、ピンダロスなどではゲーリュオネース(Γηρυόνης, Gēryonēs)、ステーシコロスの抒情詩では Γαρυόνας 、カルキディアの壺絵の表記では Γαρυϝόνης' となっている。エトルリア語ではケルン(Cerun)。日本語では長母音を省略してゲリュオン、ゲリュオネウス、ゲリュオネスとも表記される。
ゲーリュオーンの最大の特徴はその形態で、三頭[4]、または三頭三体の怪物であるとされた[5][6][7]。古注によると、ステーシコロスはゲーリュオーンには6つの腕、6つの脚があり、そして翼が生えていた、と歌っていたらしい。アポロドーロスはさらに詳細に、「三人の男の身体が腹で一つになっていて、脇腹と太腿からは三つに分かれた身体を持っていた」と叙述している[8]。
ステーシコロスによるとゲーリュオーンは鎧兜をつけ、盾と槍でもって武装する古代ギリシア市民の重装歩兵の格好をしていた。対照的にヘーラクレースはライオンの皮一枚を身にまとい、武器は棍棒か弓矢、剣といういでたちだった。この対比は多くのギリシア美術に表現されている。ゲーリュオーンの牛獲りは古代ギリシアで非常に好まれたモチーフで、130ほどの事例が知られている。
ヘーラクレースとの戦い
[編集]ゲーリュオーンは、オーケアノス(大洋)の彼方にあり、まわりに海しかないエリュテイアの島(正確な場所は不明だが、スペイン南部のタルテーッソス[9]あるいはガデイラなどの説がある[8][10][注 1])で牛の群れを飼っていた[13]。牛飼いはエウリュティオーンといい、牧犬は頭が2つあるオルトロスだった[14][8]。ヘーラクレースは12の功業の十番目のものとしてエウリュステウス王にこの牛の群れを奪ってくるように命じられ、途中でさまざまないさかいを起こしながらも、エリュテイアに到着した。彼の姿を認めたオルトロスが襲撃したが棍棒で殺され、さらに犬を助けに来たエウリュティオーンまでも殺害された。これを知った別の牛飼いメノイテース(ハーデースの牛を飼っていた)がゲーリュオーンにこのことを告げ、ゲーリュオーンは牛を追っていたヘーラクレースに追いつき、戦いを挑んだ。しかし矢で射られて殺された[8]。
ヘーラクレースは牛の群れを追っていたが、ローマの伝説によると途中でカークスという怪物盗賊がこれを盗み出した。ヘーラクレースはカークスを殺して再び牛を我が物とした[15][16]。
ゲーリュオーンの死後
[編集]ゲーリュオーンは死後、ウェルギリウスによれば冥界の住人となっていた。しかしスエトニウスの『ローマ皇帝伝』第3巻14によると、ティベリウスは遠征の道すがらパタウィウムの近くにあるゲーリュオーンの神託所に寄っておみくじを引いたという。
パウサニアースが伝えているところによると、上リューディア地方の小さな町テメヌ・テュライの丘が嵐のために割け、そこから巨大な人骨のようなものが露出した。あまりに大きいので、これはクリューサーオールの息子ゲーリュオネースの骨だと評判になった。近くには玉座もある、という噂まで立った。パウサニアースによれば、山の突端の岩塊に玉座のようなものが彫られていたという[17]。パウサニアースが「彼はガデイラにいたはずだ」と反論すると、当地の神官たちは彼に「あの骨はガイアの息子であるヒュロスのものだ」と説明したという[12]。
神話の変容
[編集]ゲーリュオーンの物語はヘーシオドスにみられるものが最古だが、すでに基本要素(オーケアノスにあるエリュテイア島、犬・牛飼い・三身の戦士との戦い、牛追い)は揃っていた。それ以降のカメイロスのペイサンドロス(断片6)、パニュアッシス(断片7A)にも基本要素は継承されている。
前6世紀初期、ステーシコロスは抒情詩『ゲリュオネイス』を書いた(現在では断片が残っているのみ)。そのなかではゲーリュオーンは非常に優雅で高貴な人物として描かれ(母カリロエーとの対話も行なわれている)、むしろ侵略者であるヘーラクレースが野蛮人で暴力沙汰を好み、その犠牲になってしまった、というように歌われているのが特徴的である。こうした同情はピンダロスにも影響を与えた[18](上述のヘーラクレースとの外見の対比を参照)。ステーシコロスの書くところによるとゲーリュオーンのうちのひとつは矢で射られ、他の2つは棍棒で殴られた様である。ギリシア美術でも1体だけ倒れ、他の2体は依然としてヘーラクレースに応戦しているという構図がいくつか見られる。ただしヒュギーヌスによれば、ヘーラクレースはゲーリュオーンを一本の投槍で殺したことになっている[19]。
シケリアのディオドーロスはゲーリュオーン神話をエウヘメリズム風に解釈した。彼によるとクリューサーオールはイベリアの王であり、ゲーリュオーンはその3人の息子のことだった。3人はそれぞれ軍隊を率いていたが、すべてヘーラクレースに打ち滅ぼされてしまった。ヘーラクレースは各地を回り、シケリア島のアイギュリオンにおいてゲーリュオーンとイオラーオスの祭儀を創始した[20]。
ダンテ・アリギエーリは『神曲』の地獄篇第16~17歌にゲーリュオーン(『神曲』でのイタリア語表記はジェーリオン、ジュリオーネ Gerione)を登場させている。『神曲』におけるジェーリオンは3頭の怪物ではなく、けばけばしい蛇の体を持ち、獣の脚、二股のサソリの尾、そして翼が生えている(この姿は「三体」という要素を「人間、獣、爬虫類」という三性質をもった体として表現したとする説がある[21])。美しい人間の顔を出しながらその首から下は怪物であるジェーリオンを、ダンテは「虚偽瞞着の厭わしい権化」と呼び、欺瞞の罪を犯した亡者のゆく地獄第8圏に棲むものとしている。ウェルギリウスは第7圏と第8圏の間にある断崖絶壁を降りるためにジェーリオンを呼び出す。2人を乗せたジェーリオンはゆっくりとらせん状の軌道を描きながら第8圏へと降り立ち、それから再びどこかへと飛び去っていった。
学術的解釈
[編集]ゲーリュオーンは本来大地あるいは冥界の精霊だったとされている。近くにハーデースの牛飼いがいること、冥界の存在となったこと、神託を行うことなどがその理由として挙げられる。
系図
[編集]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ ヘーシオドス、287行-288行。
- ^ ヘーシオドス、979行-982行。
- ^ ヘーシオドス、295行-297行。
- ^ ヘーシオドス、287行。
- ^ アイスキュロス『アガメムノーン』870行。
- ^ ルクレーティウス『物の本質について』第5巻28節。
- ^ ウェルギリウス『アエネーイス』第6巻289行。
- ^ a b c d 『ビブリオテーケー』2巻5・10(高津春繁訳、98ページ)。
- ^ ステーシコロス、断片184。
- ^ レーロスのペレキューデース、断片18b。
- ^ ヘーロドトス『歴史』第4巻8。
- ^ a b パウサニアース『ギリシア案内記』第1巻35章8。
- ^ ヘーシオドス、290行。
- ^ ヘーシオドス、294行。
- ^ リーウィウス『ローマ建国史』第1巻第7章4-7。
- ^ 『アエネーイス』第8巻190行-275行。
- ^ パウサニアース『ギリシア案内記』第1巻35章7。
- ^ ピンダロス、Snell-Maehler断片81。
- ^ ヒュギーヌス『神話集』30話。
- ^ シケリアのディオドーロス『歴史叢書』第4巻17-24。
- ^ 平川祐弘訳『神曲 地獄篇』河出書房新社、234ページ
参考文献
[編集]- アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波文庫(1953年)
- アルクマン他『ギリシア合唱抒情詩集』丹下和彦訳、京都大学学術出版会(2002年)
- ディオドロス『神代地誌』飯尾都人訳、龍溪書舎(1999年)
- パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年)
- ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』松田治・青山照男訳、講談社学術文庫(2005年)
- ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫(1984年)
- ヘロドトス『歴史(上)』松平千秋訳、岩波文庫(1971年)
- 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店(1960年)p. 122
- Philip Brize, 1988, "Geryoneus", Lexicon Iconographicum Mythologiae Classicae IV/1, pp. 186-90.
- Philip Brize, 1990, "L. Herakles and Geryon (Labour X)", Lexicon Iconographicum Mythologiae Classicae V/1, pp. 73-85.