ピコ・デラ・ミランドラ
ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola、1463年2月24日 - 1494年11月17日[1])は、イタリア・ルネサンス期の哲学者、人文学者[2]である。「人間の尊厳」を主張したとされてきたが、近年では、ピーコの用いる「尊厳」の語には「序列」という意味もあり、今日でいう「尊厳」の意味はなかったとも言われている。ともあれ、ピーコにとって人間とは、なんにでもなれる変幻自在のカメレオンのごときものであった。なお「ピーコ・デッラ・ミランドラ」とは「ミランドラ出身のピーコ」という通称であり、名字はピーコである。
生涯
[編集]北イタリア・ミランドラの領主、ピーコ家(it:Pico (famiglia))ジャン・フランチェスコ・ピーコ1世の子として生まれた[3]。ボローニャ大学で法律を、パドヴァ大学で教会法を学んだのち各地で研鑽を積み、フィレンツェへ行き、哲学者として高名なマルシリオ・フィチーノと接した。若くして才能を発揮し、プラトンをギリシャ語で、旧約聖書をヘブライ語で読んだ。博識で弁が立ち、メディチ家のプラトン・アカデミーの中心的な人物の1人になった。
人間は小さな宇宙であり、その中には元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれると考え、人間が動物と異なるのは、自由意志によって何者にも(神のようにも獣のようにも)なることができる点だとして、「人間の尊厳」を主張した[4]。1486年、ローマで哲学・神学の討論会を企画し、討論会のために書いた原稿が『人間の尊厳について』 (Oratio De Dignitate hominis) で、ピーコの主著である。ただしこの題名はピーコ自身の命名ではない。
この討論会では聖体変化などについての議論も予定しており、ローマ教皇インノケンティウス8世から異端の疑いをかけられ、討論会は中止。ピーコも逃亡後、捕えられてしまうが、メディチ家のロレンツォ・デ・メディチの努力により釈放され、フィレンツェに戻る。ジローラモ・サヴォナローラとも親交があった。31歳で死去。
フィチーノと同様、近年は異教的な神秘主義の側面が注目されている。自然を支配する業としての魔術を信じていたが、占星術については、人間の運命が定められているというのは人間の自由意志に反する、として反対するようになり、師フィチーノの説を批判した『反占星術論』を執筆している。また非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされる。
著書
[編集]- 『人間の尊厳について』 植田敏郎訳、創元社、1950年
- 「人間の尊厳についての演説」- 『ルネサンスの人間論 原典翻訳集』佐藤三夫訳編、有信堂高文社、1984年1月。
- 『人間の尊厳について』大出哲・安部包・伊藤博明訳、国文社〈アウロラ叢書〉、1985年11月。
脚注
[編集]- ^ 『ピコ・デラ・ミランドラ』 - コトバンク
- ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、51頁。ISBN 978-4-08-720815-3。
- ^ Marek, Miroslav. “Genealogy.eu”. 2008年3月9日閲覧。
- ^ ペーテル・エクベリ『おおきく考えよう 人生に役立つ哲学入門』晶文社、2017年、25頁。ISBN 978-4-7949-6975-0。
参考文献
[編集]- ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、51頁。ISBN 978-4-08-720815-3。
書籍
[編集]エティエンヌ・バリリエ『蒼穹のかなたに-ピコ・デッラ・ミランドラとルネサンスの物語 1・2』桂芳樹訳、岩波書店、2004年3月。 - 歴史小説の大作。
関連項目
[編集]- イタリア文化会館主催でイタリア語作品の翻訳に対して贈られる。これまでに作家の須賀敦子、ルネサンス美術史の岡田温司(京大教授)、『マキァヴェッリ全集』を編集した永井三明(同志社大名誉教授)らが受賞。(イタリア文化に関する著作に贈られるマルコ・ポーロ賞もある)