コンテンツにスキップ

フトゥッワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フトゥッワアラビア語: فتوة, Futuwwa)とは、中世イスラーム任侠結社若者組[1]。トルコではアヒー(akhī)という[1]

特徴

[編集]

フトゥッワは都市部の若い男性からなる集団で、戦闘的性格とともに勇敢さ、寛容さ、客人のもてなし、といった倫理道徳規範を有していた[1]

歴史

[編集]

フトゥッワはイスラム以前のジャーヒリーヤ時代5世紀7世紀)の伝統を受け継いだものといわれる[2]

アイヤール 9世紀〜11世紀

[編集]

9世紀アッバース朝時代、イラン東部に現れ、任侠集団アイヤール('ayyār)が登場し、サッファール朝を建国した[1]。アイヤールのほかにはフィトヤーン、シュッタール、アフダース(aḥdāth)といった名前の集団もある[3]

その後、スーフィズムタリーカ)教団の影響を受けた[1]

13世紀

[編集]

13世紀アッバース朝カリフナースィル・リ・ディーニッラー(1158 -1225)は、フトゥッワ集団の長でもあった[1]

イブン・バットゥータによれば、フトゥッワは当時のトルコイランの都市に存在し、トルコではアヒー(akhī)と呼ばれ、市場の商人、職人層の若者から構成され、治安維持もおこなう自警団的な性格も持っていた[1]。アヒーは仕事のあと、修道施設ザーウィヤ(zāwiya)に集い、ズィクル(dhikrけ唱名)など修行を行った[1]

ルーム・セルジューク朝首都コンヤでは、アヒー集団はメヴレヴィー教団のスーフィーと関係し、イスラーム法官カーディーに従っていた[1]

シーア派との関係:アリー崇拝

[編集]

またシーア派の初代イマームであるアリー・イブン・アビー・ターリブ(600 - 661)を崇拝していた(アリー崇拝)[1]

アリー崇拝は、異教徒との聖戦において勇敢さと潔さを発揮し、フトゥッワの徳目の象徴となった[1]

またタリーカ教団のアリー崇拝とともにシーア派の土壌となった[1]

フトゥッワト・ナーメ

[編集]

フトゥッワの信条や儀礼はフトゥッワト・ナーメ(futuwwat-nāme)という冊子に書かれた[1]

アブドゥル・アズィーム・ハーン・カリーブ(Mīrzā 'Abd al-'Azīm Khān Qarīb)のフトゥッワト・ナーメでは、フトゥッワはコーランに記載された若者(ファター、fatā)を引用して公的イスラームに起源が求められた[1]。また、同書ではアリーがフトゥッワ指導を行い、ハディースに基づいて謙虚さ、赦し、寛容性、奉仕、助言を美徳とすると書かれている[1]

現在

[編集]

今日でもバーザールや古式闘技道ズール・ハーネ(zūr-khāne)、またシーア派などにおいてフトゥッワは生きているともいわれる[1]

日本の武士道との類似性

[編集]

日本の任侠との類似、またスーフィズムとフトゥッワの関係が、日本の武士道に類似していることも指摘されている[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐野東生「シーア派イスラームとの対話-神秘主義をめぐる日本との共通性を探って-」、2013
  2. ^ 世界大百科事典第2版「フトゥッワ」
  3. ^ 世界大百科事典第2版「俠客」

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy