コンテンツにスキップ

一柳頼紹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳 頼紹
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代初期
生誕 文政5年(1822年[1]
死没 明治2年7月14日1869年8月21日[1]
戒名 恭靖軒殿大道義譲大居士
墓所 愛媛県西条市の仏心寺山
官位 従五位下、因幡守、兵部少輔。
幕府 江戸幕府
伊予小松藩
氏族 一柳氏
父母 父:村越成芳
養父:一柳寿重一柳頼親
正室:秋月種任の娘・益子(マス子)
側室:原田氏
頼明(三男)、紹念(四男)、栄子(一柳末徳正室)
テンプレートを表示

一柳 頼紹(ひとつやなぎ よりつぐ)は、江戸時代後期・幕末期の大名。伊予小松藩の第8代藩主。

生涯

[編集]

文政5年(1822年)、小松藩主一族である旗本村越成芳(第5代藩主・一柳頼寿の六男)の二男として生まれ、叔父にあたる一柳寿重(頼寿の七男)の養子となった[2]。『平成新修旧華族家系大成』では一柳寿重の二男と記している[1]

天保3年(1832年)8月21日、従兄に当たる先代藩主の頼親が死去したため、末期養子として家督を相続した。天保9年9月15日、将軍徳川家慶御目見した。同年12月16日、従五位下・兵部少輔に叙任する。藩政では文教政策に尽くした。また、幕末の動乱の中で、頼紹は尊王派として三条実美澤宣嘉らと親交を持った。

慶応3年(1867年)11月5日、病気を理由に上洛の延期を朝廷に申し出る。慶応4年1月15日、重臣近藤十左衛門を上洛させて、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、病気を理由として藩主に代わり、嫡子頼明を上洛させた。藩論を尊王でまとめた頼紹は[1]慶応4年(1868年)の戊辰戦争において新政府側に与し、藩兵を越後北越戦争)や出羽山形方面に出動させた[2]

明治2年(1869年)、戊辰戦争の功績として賞典金2000両を与えられる[1]。同年6月24日、版籍奉還により知藩事となるが、直後の7月14日に東京で死去した。享年48[2]。跡を頼明が継ぎ、知藩事となった。

家族・親族

[編集]

正室は、日向高鍋藩秋月種任の娘・益子(天保2年(1831年)1月 - 明治10年(1877年)3月20日)[1]。なお、先代藩主頼親の正室照子は益子の叔母に当たる。

平成新修旧華族家系大成』は、子として以下を載せる。

  • 長女:栄子(えいこ、安政元年(1854年)7月15日 - 明治26年(1893年)11月24日。一柳末徳正室)[3]
  • 長男:頼明(よりあき、安政5年(1858年)7月15日 - 大正9年(1920年)1月16日)
  • 四男:紹念(つぐむね、万延元年(1860年)10月12日 - 昭和4年(1929年)3月12日)

家督は頼明が継いだあと、紹念に譲られており、明治17年(1884年)の華族令施行に際して紹念が子爵に叙せられた。

長女の栄子は、同族の小野藩主家を継いだ一柳末徳九鬼隆都五男)の正室となった。

参考文献

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 平成新修旧華族家系大成』下、p.409
  2. ^ a b c 一柳頼紹”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月2日閲覧。
  3. ^ 平成新修旧華族家系大成』下、p.407

外部リンク

[編集]
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy