コンテンツにスキップ

井上吉弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井上吉弘
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄7年(1564年
死没 寛永20年9月16日1643年10月28日
改名 渋谷吉弘→井上吉弘、浄庵(法名)
別名 重弘、弥一郎、勘兵衛
主君 六角氏佐々成政加藤清正忠広
青山幸成
氏族 渋谷氏井上氏
父母 養父:井上宗庵
兄弟 加藤重次吉弘
井上宗庵娘
市大夫、弥一郎、吉次、与平、了学、女子、女子
テンプレートを表示

井上 吉弘(いのうえ よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将加藤重次の弟。

生涯

[編集]

近江国甲賀渋谷氏の出身。初め六角氏に従い、六角氏が滅亡すると富山城主・佐々成政に従った。成政が隈本城主になると、兄・重次と共に肥後国入りしたが、肥後国人一揆など内政の失敗で成政が豊臣秀吉の命で切腹すると、兄と共に後任の熊本城主である加藤清正に仕えた。食禄は1,000石に始まり後に2,020石にまで加増を受けた。

佐敷城代となった重次が主君・清正と共に豊臣秀吉の命で朝鮮出兵(文禄の役)に従軍すると、手薄になった佐敷城の留守居役として守った。天正20年(1592年)、島津氏の家臣梅北国兼らが反乱を起こして佐敷城を6月15日に部下730〜1000人規模で占拠した時、吉弘は井上彦左衛門、坂井善左衛門、安田弥右衛門らと謀り、6月17日の酒宴の席で油断した国兼を討ち取った。この梅北一揆を鎮圧した後、朝鮮出兵に参加した。

後に清正の側用人となり、加藤家家臣・井上宗庵(清和源氏頼季流)の婿養嗣子となって、井上姓に改めた。

寛永9年(1632年)、2代藩主・加藤忠広改易後、入道して浄庵と名乗り、尼崎城主・青山幸成(後に尼崎藩初代藩主)の客分(20人扶持)として招かれ、寛永20年(1643年)に尼崎で死去した。

長男の市大夫(尼崎藩300石)は尼崎にて病死、家督を相続した次男弥一郎(尼崎藩200石)は、世子青山幸利の代に故郷の肥後国熊本への帰郷を願い出て、許されている。後に細川家2代藩主細川光尚に召しだされ、子孫は明治維新以降も続いた。大日本帝国憲法皇室典範草案者である井上毅は、その子孫である。三男は吉次ー宗盆(吉次の子、熊本藩藩医)、四男初代与平(譜代大和高取植村藩に仕官)後に加藤姓に改める(初代加藤与平)、五男了学(専妙寺開基)、ほかに娘二人、いずれも子孫明治以降まで続いた。

関連作品

[編集]

参考資料

[編集]
  • 井上弥一郎梅北一揆始末覚
  • 梅北宮内左衛門一揆之次第
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy