コンテンツにスキップ

千秋季信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
千秋 季信
生誕 永禄3年(1560年?)
死没 不詳
改名 喜七郎(幼名)→季信
官位 紀伊守
主君 織田信長
氏族 熱田大宮司千秋家
父母 父:千秋季忠
水野信元
季盛、季近、季俊、季長、俊応、季政、娘、娘、娘
テンプレートを表示

千秋 季信(せんしゅう すえのぶ)は、戦国時代熱田社大宮司

通称は紀伊守[1]

生涯

[編集]

1560年永禄3年)父千秋季忠は、織田信長に従って桶狭間の戦いに出陣し討死、信長は季忠の妻の胎内にあった季信に14年後の1574年天正2年)に引見し、刀一振りとともに野並村を領地として与えたことから、季忠の子として1560年または1561年に誕生したと考えられる。

その後、神官のみになった説と、神官と信長の馬廻を担った説がある[2]

1601年慶長6年)2月4日 - 『尾張国領主松平忠吉家老の小笠原吉次が、大宮司千秋李信通して、大宮司家領野並村一郷の指出提出を庄屋に命ず』とある[3]

2月7日 - 『徳川家康が大宮司千秋李信に大宮司領を安堵し、三河国高橋群舞木村と尾張国海東群下田村・丹羽郡赤目村三ケ村の賛地として、尾張国愛智郡野並郷一円を山ともに給料す』と伊奈忠次書状写にある[3][4]

亡くなった年月は不明だが、熱田大宮司は息子の季盛が継いでいる[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 千秋氏”. 2023年1月17日閲覧。
  2. ^ マイナー武将列伝”. 2023年1月17日閲覧。
  3. ^ a b 千秋家文書 / 熱田神宮文書
  4. ^ 中世熱田社の構造”. 2023年1月17日閲覧。

参考文献

[編集]
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy