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喜多隆志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
喜多 隆志
興国高等学校硬式野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県生駒市
生年月日 (1980-02-06) 1980年2月6日(44歳)
身長
体重
182 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 2001年 ドラフト1巡目
初出場 2002年4月30日
最終出場 2003年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

喜多 隆志(きた たかし、1980年2月6日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手外野手)。2019年現在は興国高等学校で硬式野球部監督を務める。

来歴・人物

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智辯和歌山高校時代は中堅手として活躍、甲子園に3回出場している。1996年、2年生の時、同期の高塚信幸中谷仁のバッテリーを擁し、春の選抜に出場[1]。決勝に進むが鹿児島実下窪陽介に抑えられ準優勝にとどまる[1]。同年夏の選手権では1回戦で水戸短大付に敗退。この時の控え投手に宮崎充登がいた。翌1997年夏の選手権にも出場[1]。決勝では平安高川口知哉を打ち崩し優勝[1]

卒業後は慶應義塾大学総合政策学部(SFC)へ進学。1年春から東京六大学野球リーグに出場[1]し、2000年2001年と2度の秋季リーグ戦の優勝に貢献した。2000年の明治神宮野球大会では中村泰広山本省吾ら投手陣の好投もあり、決勝で東海大を延長10回の末に降し優勝。2001年秋季リーグではシーズン最高打率.535を記録[1]。その記録は2023年時点でも破られていない[2]。リーグ通算92試合出場、355打数114安打(打率.321)、6本塁打、59打点。ベストナイン(外野手)4回選出。大学同期に三塁手三木仁がいた。2001年のドラフト1巡目指名で千葉ロッテマリーンズに入団[1]

左足踝骨折のため開幕には間に合わなかったが、2002年5月1日(対福岡ダイエーホークス戦)、右翼手、一番打者として初先発出場[1]。一軍公式戦初安打をサヨナラ安打で飾る[1]。2日後の5月3日の試合(対西武ライオンズ戦)でも森慎二からサヨナラ安打を放ち、パ・リーグ史上8人目の2試合連続サヨナラ打を記録[1]。新人としてはリーグ史上初の快挙であった。同年は11試合に先発出場を果たし、フレッシュオールスターゲーム第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、「ロッテを変える男」として期待された。翌2003年も12試合に先発。しかし2004年以降は、外国人選手や有望新人選手の入団、ライバル選手の打撃開眼などに押され、一軍での出番が無くなってしまった。2006年10月2日に戦力外通告を受け、現役引退。

なお、マリーンズ時代に使用されていたOi-SKALL MATESの「NISHIOGI TOKYO」を原曲とする応援歌は、ファンはおろか他の選手の間でも評判がよかった。応援歌が流れると外野を守っていたタフィ・ローズ(当時、近鉄)は、投球の合間に応援席を見ながら、センターを守っていた大村直之に「すごいな」という意のジェスチャーをしていた。

2006年11月14日、本人のブログにて、野球をやめることを発表。スポーツ用品店に勤務する傍ら教員免許を取得し、アマチュア野球の指導者を目指した[3]。2009年3月より朝日大学助教となり、朝日大学硬式野球部でコーチを務めていたが[3]、2011年4月に母校・智弁和歌山高校に教師として赴任した[3]2011年5月1日、日本学生野球協会により、学生野球資格回復による規則第3条による適性認定者となる。これは、大学専任教員経験者としては、初めてのことである[要出典]

その後野球部副部長に就任。2015年夏には高嶋仁の退任が報道され、後任として名前が挙がったものの最終的に高嶋の続投が決定。2017年3月限りで智弁和歌山高校を退任し、同年4月から興国高等学校へ赴任し[3]、2018年8月7日に同校の野球部監督に就任した[3]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
2002 ロッテ 19 56 50 4 11 1 1 0 14 3 0 0 3 0 3 0 0 13 1 .220 .264 .280 .544
2003 34 50 47 5 11 1 1 0 14 1 1 0 2 0 1 0 0 13 1 .234 .250 .298 .548
通算:2年 53 106 97 9 22 2 2 0 28 4 1 0 5 0 4 0 0 26 2 .227 .257 .289 .546

記録

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背番号

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  • 3 (2002年 - 2003年)
  • 44 (2004年 - 2006年)[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、181ページ
  2. ^ 内田勝治 (2023年9月17日). “長嶋茂雄でも岡田彰布でもない…東京六大学最高打率「.535」を叩き出した慶応大“伝説のバッター”は、なぜ26歳で球界を去ったのか?”. Number Web. 文藝春秋. 2023年9月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e 内田勝治 (2023年9月17日). “慶応大のドラ1が引退後、受け取った月給は12万…野球エリートが直面した“社会の現実” 元ロッテ・喜多隆志が明かす「興国高監督になるまで」”. Number Web. 文藝春秋. 2023年9月17日閲覧。
  4. ^ 2003年オフに一旦は背番号36に変更するも、直後に李承燁が入団して背番号36をつけ、背番号44に変更となる。

関連項目

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外部リンク

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