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坂口雅久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂口 雅久
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都
生年月日 (1951-11-15) 1951年11月15日(73歳)
身長
体重
172 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 立教大学

坂口 雅久(さかぐち まさひさ、1951年11月15日[1] - )は、東京都出身のアマチュア野球選手(内野手)。

経歴

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立教高等学校では、同期のエース岡持和彦の好投もあり1969年夏の県大会準決勝に進出するが、川越工に敗退。1学年下に外野手村山修一がいる。

立教大学へ進学。当時の立大は東京六大学野球リーグで低迷が続き、3位2回が最高成績であった[2]1972年の春秋季リーグでベストナイン(二塁手)に連続選出され、同年の第1回日米大学野球選手権大会日本代表となる。同期のエース中村憲史朗(日本石油)を支え、村山修一とともに打の主軸となった。

大学卒業後は松下電器に入社、二塁手として起用される。一塁手松下勝実遊撃手山口円らと強力打線を形成。エース山口高志を擁し、1974年第1回社会人野球日本選手権大会に出場するが2回戦(初戦)で三協精機大塚喜代美に完封を喫する[3]1977年都市対抗では初めて準々決勝に進出するが、日本鉱業佐賀関藤沢公也に抑えられ敗退[4]。同年の社会人野球日本選手権ではエース福間納が活躍し準決勝に進むが、電電四国の小原慶司に0-1で完封負け[5]1979年第6回社会人野球日本選手権大会は、長谷部優、原邦彦の好投もあって決勝に進み、住友金属に敗退するが準優勝と健闘した[6]。同大会の優秀選手に選出される。

現役引退後は社業に就き、全日本チームのコーチ等を歴任、2004年から2009年まで立教大学監督。その後はJ SPORTSSky-Aなどで大学、社会人野球の解説を務めている。

脚注

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  1. ^ 日本オリンピック委員会HP
  2. ^ 東京六大学野球連盟(記録)」(一財)東京六大学野球連盟
  3. ^ 「日本社会人野球協会会報1974」日本社会人野球協会 1975年
  4. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  5. ^ 「日本社会人野球協会会報1977」日本社会人野球協会 1978年
  6. ^ 「日本社会人野球協会会報1979」日本社会人野球協会 1980年

関連項目

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