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大麻勇次

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大麻 勇次
大麻勇次
生誕 1887年1月16日
熊本県玉名市
死没 (1974-02-22) 1974年2月22日(87歳没)
記念碑 大麻勇次先生之像(佐賀県総合体育館
国籍 日本の旗 日本
流派 新陰流(上野新陰流)
肩書き 剣道範士十段
親戚 大麻唯男(弟)
受賞 正五位勲三等
勲四等旭日小綬章
紫綬褒章
全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰
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大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年明治20年)1月16日[1] - 1974年昭和49年)2月22日[1])は、日本剣道家。段位範士十段。熊本の新陰流(上野新陰流)の和田傳の弟子。

経歴

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1887年(明治20年)、熊本県玉名市安楽寺に生まれる。弟は後に衆議院議員国家公安委員会委員長を務める大麻唯男

1909年(明治42年)から1910年(明治43年)まで、大日本武徳会本部講習生として剣道を修行する。

その後、熊本に帰り、大日本武徳会熊本支部、熊本陸軍幼年学校で剣道を指導する。

1915年大正4年)、精錬証を授与される。

1921年(大正10年)12月から1945年(昭和20年)まで、大日本武徳会佐賀支部、佐賀県警察部佐賀高校などの剣道師範を歴任。

1922年(大正11年)、剣道教士号を授与される。

1924年(大正13年)、第1回明治神宮競技大会剣道競技在郷軍人高点試合で優勝。

1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会に指定選士として出場。予選リーグ小関教政早坂広道伊藤精司を、準々決勝小川金之助を破るが、準決勝高野茂義に敗れる。

1930年(昭和5年)、大日本武徳会から欧米に派遣され、現地の体育状況を6か月間視察。

1936年(昭和11年)、剣道範士号を授与される。

1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合に出場し、堀田捨次郎との試合を披露。

1947年(昭和22年)、大日本武徳会幹部のため公職追放される[2]

1951年(昭和26年)、公職追放解除[3]

1955年(昭和30年)、佐賀県剣道連盟会長に就任。

1958年(昭和33年)、第28回衆議院議員総選挙熊本1区から無所属で立候補するが落選[4]

1962年(昭和37年)、全日本剣道連盟から剣道十段を授与される。

1963年(昭和38年)、紫綬褒章を受章。日本剣道使節団長としてアメリカを訪問。

1964年(昭和39年)、全日本剣道道場連盟を結成し、会長に就任(亡くなるまで在任)。

1965年(昭和40年)、勲四等旭日小綬章を受章。

1969年(昭和44年)、佐賀新聞文化賞を受賞。

1971年(昭和46年)、日本少年剣道隊団長としてアメリカを訪問。

1974年(昭和49年)、死去。正五位勲三等追贈される。

1979年(昭和54年)から、大麻旗争奪剣道大会が開催される。

2005年(平成17年)、全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰される。

佐賀県総合体育館敷地に胸像が建立されている。

脚注

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  1. ^ a b 『剣道事典 技術と文化の歴史』337頁。
  2. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、454頁。NDLJP:1276156 
  3. ^ 『朝日新聞』1951年8月7日二面 「第二次追放解除者」
  4. ^ 『衆参両院名鑑』590~591頁。武市昭彦編 国政出版社 1990年。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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