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山本壮一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本 壮一郎
やまもと そういちろう
生年月日 1919年6月15日
出生地 大阪府大阪市天王寺区
没年月日 (2001-01-18) 2001年1月18日(81歳没)
死没地 宮城県仙台市青葉区
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 内務省官僚
自治省官僚
宮城県庁総務部長
宮城県副知事
全国知事会副会長
第17次地方制度調査会委員
地方分権推進委員会委員
仙台空港ビル代表取締役社長
所属政党 無所属
称号 従三位
勲一等瑞宝章
宮城県名誉県民
海軍主計中尉
親族 弟・山本研二郎

宮城県の旗 公選第8-12代 宮城県知事
当選回数 5回
在任期間 1969年3月28日 - 1989年3月27日
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山本 壮一郎(やまもと そういちろう、旧字体では「壯一郎」。1919年6月15日 - 2001年1月18日)は、日本内務官僚政治家

全国知事会副会長、宮城県知事宮城県副知事などを歴任[1]

経歴

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大阪府大阪市天王寺区生まれ。旧制大阪高校を経て、1943年昭和18年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年内務省に入省するが、太平洋戦争激化に伴い、海軍に志願した。1944年(昭和19年)、海軍経理学校を卒業し、海軍主計中尉として第二南遣艦隊司令部に配属され、ボルネオ終戦を迎えた。

1946年(昭和21年)に復員後、内務省に復帰した。内務省解体後は自治省に移り、宮城県に出向。1960年(昭和35年)に宮城県総務部長、1965年(昭和40年)に宮城県副知事となった。1969年(昭和44年)、宮城県知事選挙に立候補し当選。以後5期20年間知事職を務めた。最初と2回目の選挙は自民党公認で立候補した。[1]

住民参加型の地方自治の推進を目指し、この間、1973年(昭和48年)より東北自治協議会会長、1979年(昭和54年)より地方制度調査会委員、1983年(昭和58年)より全国知事会副会長、1987年(昭和62年)より財団法人宮城県国際交流協会会長をそれぞれ歴任した。

1989年平成元年)に知事職から退任。その後、仙台空港ビル社長、テクノプラザみやぎ社長に就任した他、1995年(平成7年)には地方分権推進委員会委員を務めた。

2001年(平成13年)1月18日骨髄異形成症候群のため東北大学医学部附属病院で死去。

栄典・受賞

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親族

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脚注

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  1. ^ 山本壮一郎”. コトバンク. DIGITALIO. 2024年10月31日閲覧。
  2. ^ 「秋の叙勲 受章者4492人 隠れた功労積み重ねた人にも光」『読売新聞』1989年11月3日朝刊
公職
先代
高橋進太郎
宮城県の旗 宮城県知事
公選第8-12代:1969年 -1989年
次代
本間俊太郎
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